戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

首里 しゅり

 沖縄本島を中心に栄えた琉球王国の王都。15世紀初頭に琉球中山国の察度王統を滅ぼした尚巴志によって、浦添から遷都された。尚氏王朝が沖縄本島を統一するにおよび、王国全体を統治する政治・宗教の中心となった。

王朝の首都

 都としての首里は、永享元年(1429)に沖縄本島を統一した中山王・尚巴志浦添から遷都したことに始まる。応永三十四年(1427)建立の「安国山樹華木記碑」によれば、首里城外苑では龍潭など大規模な整備工事が竣工している。

 その後、文明元年(1469)に第二尚氏王朝が興ると、その第三代・尚真王は各地に割拠していた按司(地方の政治的支配者)たちを首里に住まわせた。また各按司所領内の神女ノロ(村落の女性司祭者)を任命し、これも首里に居住させた。

 政治的な支配体制の固めるとともに、宗教的にも王府が各地域の総括的祭祀権を掌握。王国の最高神女である聞得大君を頂点とした、中央と地方の神女組織を確立していった。

 同時に尚真王は、仏教を奨励して円覚寺を創建した。また真珠道など幹線道路の整備など土木事業も行っている。この尚真王のもとで、王都・首里は基本的な都市形態やアウトラインが定まった。

朝鮮人の見た城下町

 1461年(寛正二年)二月、宮古島に漂着した肖得誠は、首里城について、城は三重で、城壁は漢城のそれよりやや高くて曲水のようにうねっているが、城門は漢城のと変わらなかった、としている。また首里の町について、「民居は稠密にして、屋を並べ墻(塀)を連ね、街路甚だ狭し、人家は松・棕(しゅろ)の二樹を種植するを好む」と述べている(『朝鮮実録』)。

 1477年(文明九年)に与那国島に漂着した金非衣も首里の町について報告しており、「人家或いは瓦を蓋くも、然して板屋甚だ多し」と観察した内容を語っている(『朝鮮実録』)。

寺院の建立

 このように15~16世紀にかけて、首里では王都としての整備が進んでいった。そして仏教の興隆により、首里城周辺には他にも天界寺、天王寺など数多くの寺院が建立された。

 天文三年(1534)、冊封使正使として琉球を訪れた陳侃は、「王宮の近くに所在する天界寺と円覚寺は、王宮についで広大・壮麗な建築で、その他の小さい寺院は記すいとまが無い」としている。首里は国家的な祭祀の中心であるとともに、仏教建築が栄えた宗教都市でもあった。

参考文献

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首里城から見た那覇市街 from写真AC