戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

新納 康久 にいろ やすひさ

 島津氏家臣。官途名は、右衛門佐、後に伊勢守。島津氏一族である新納氏の庶流。父は新納忠澄島津忠良・貴久父子に仕えた。

島津忠良・貴久父子の下で活躍

 康久の事跡は「新納氏支流系図」や、天保年間(1830~44)に編纂された『本藩人物誌』などに詳しい。これらによれば、天文八年(1539)、康久は薩州家の島津実久に味方する加世田城を攻略し、この功績により忠良から加世田の地頭職を賜った。

 天文十三年(1544)に渋谷氏が忠良・貴久に叛くと、康久は市来地頭職に補任されて市来に移る。乱は天文十八年に終結するが、康久は計略や合戦によって敵対勢力を降すなど、大いに軍功をあげたとされる。

種子島氏の内訌と屋久島進駐

 そのほかの康久の軍功の一例として、種子嶋氏の内紛に介入しての屋久島出兵がある。『貴久公記』によれば、天文十一年(1542)三月、種子島惠時、直時(時尭)父子が「儀絶」状態となった。この時、大隈の国人領主・禰寝氏が直時の与力として種子島に渡島したが、不調に終わったため、直時は今度は島津氏を頼った。

 これを受けて貴久の命を受けたとみられる新納伊勢守(康久)が100余の兵を率いて坊津から出船し、硫黄島を経て屋久島に進駐している。屋久島には種子島から直時が落ちてきて、三島(種子島屋久島、永良部島)を島津氏に進上することを誓ったという。

キリスト教への態度

 またルイス・フロイスが著した『日本史』によれば、天文十八年(1549)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島で布教した際、新納伊勢守殿(Niyro Yxenocamidono)の家臣であったミゲルという老人が、ザビエルから洗礼を授けられれている。ミゲルの主君であった新納伊勢守は、康久とみられている。

 ザビエルはさらに市来にも訪れて布教を行った。ミゲルの助力もあって、康久の家族全員がキリシタンとなったという。ただ、『日本史』には「主君のみは異教徒たるに留まった」とあり、康久自身はキリスト教に改宗していない。

 一方で永禄五年(1562)に市来を来訪した修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡には、ザビエルによってキリスト教に改宗した康久の妻の一人が語った内容が記されている。彼女によれば、ザビエル直筆の祈祷文の入った袋を、病人の頸に懸けることで彼らが健康になったという。また夫の康久もかつて生命が危ぶまれたが、頸に袋を懸けるとたちまち回復したという。

 康久がキリスト教に対して寛容な姿勢をとっていたことがうかがえる。

参考文献

  • 清水紘一 「ザビエルと新納氏一族」(『日欧交渉の起源 -鉄砲伝来とザビエルの日本開教-』 岩田書院 2008)