戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

山本 泰久 やまもと やすひさ

 厳島神領衆。官途名は和泉守。厳島神主家滅亡後、廿日市・桜尾城督のもとで佐西郡の支配にあたった。

山里の神領

 厳島五重塔初重の朱柱銘に「当国山里山本和泉守泰久」とあり、泰久が山里(安芸佐西郡山間部)を本拠としていたことが分かる。その名が初めてみえるのは大永五年(1525)二月で、神主家が山里土毛田の大窪名を、竹垣領として大願寺に知行させるよう命じた件の奉行人となっている(「大願寺文書」)。

大内氏との関係

  天文十年(1541)の神主家滅亡後、泰久は大内氏へと接近したとみられる。天文十三年(1544)六月、大内氏奉行人は社家衆拘分押領地の返還を命じる奉書を、厳島社家・棚守房顕から各押領人に届けさせている。しかし、特に泰久だけは「此方之事」なので、大内氏から直接送達するとされている(「厳島野坂文書」)。

 泰久の立場が、大内氏被官に近いものとなっていたことがうかがえる。このためか、旧神領佐西郡)と大内氏の取次ぎの役割も果たしている(「厳島野坂文書」)。

神領支配に関わる

 泰久は、大内氏の桜尾城督・鷲頭興盛のもとで旧神領の支配に関わっていた。天文十一年(1542)四月、弘中正長ら大内氏奉行人から、廿日市納銭の内33貫文を転経料として厳島社へ支給するよう命じられている。

 天文十三年(1544)六月から十六年(1547)十二月にかけては、鷲頭氏被官とともに桜尾城に収納された山里納銭を厳島社家・野坂房顕らに渡している(「野坂文書」)。その他にも、平泉寺からの段銭徴収や、佐西郡での人夫徴発にあたっていることが確認できる(「厳島野坂文書」)。

 また天文十八年(1549)十二月、泰久は廿日市町の鋳物師に対する「公役」賦課を堅固に申付けたことを大内氏奉行人に報告している(「真継文書」)。廿日市の町支配にも関与していたことが分かる。

参考文献

  • 廿日市町史 通史編 上』 1988

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厳島神社五重塔。天文二年(1533)に改修された(建立説もある)。初重の朱柱銘に泰久の名がみえる。