ベトナム北部および中部で生産された陶磁器の総称。ベトナムにおける施釉陶磁の歴史は古く、二千年以上前から始まっていたとされる。11世紀に興った李朝の時代から独自の陶磁が生産されるようになり、東南アジア諸国だけでなく琉球や日本にも輸出された。西方にも輸出されており、オスマン朝には「大和八年」(1450年)銘の青花天球壺が伝わっている。
李朝と陳朝
11世紀から13世紀、ベトナム北部を支配した李朝期のベトナム陶磁には、白磁や青磁、白釉褐彩製品などがある。この時期の出土品には蓮や竜の文様が多用されており、中国宋朝の陶磁器の影響がみられるという。
1225年(嘉禄元年)、陳煚へ譲位が行われたことで李朝は滅び、陳朝が興る。1258年(正嘉二年)、陳朝は雲南から侵攻してきたモンゴル軍に都の昇龍を陥とされて服属するが、『元史』の1262年(弘長二年)の記述によると、モンゴルは「安南国」に対し朝貢品として南海の産物とともに「磁盞」を指定している。13世紀段階の陶磁器には、中国やベトナムの製品が想定されている。
なおベトナム北部において、中国や南海諸国との主要な貿易拠点が雲屯だった。雲屯のコンクイ地点では、北宋から明朝の青磁や白磁、青白磁、ベトナム陳朝の青磁や白釉褐彩壺などが出土している。
日本の北九州を中心とする地域では、ベトナム初期鉄絵、青花花文碗が多数出土。大宰府遺跡からは、元徳元年(1330)の墨書銘のある木片とともに鉄絵草花文碗片がみつかっており、瀬戸内海沿岸の草戸からも、この時期の白磁碗がみつかっている。
また琉球では首里城二階殿地区で、14世紀後半から15世紀中頃の遺物が集中する遺構から初期鉄絵、青花、青磁など多数のベトナム陶磁が出土。今帰仁城址の14世紀後半から15世紀初めの遺構からも、ベトナムの青磁が発見されている。
胡朝と明朝支配期
14世紀後半以降、陳朝はベトナム中部のチャンパ王国との抗争で弱体化した。陳朝末期には官僚の胡季犛が朝廷の実権を掌握してタインホアに遷都し、1397年に「西都城」(胡朝城)を建設。1400年(応永七年)には皇帝として即位し、胡朝を開いた。『大越史記全書』によると、胡朝は1397年(応永四年)にハノイおよびその周辺やハイズオンの陶磁器生産窯で新都建設のために瓦や塼(焼きレンガ)を生産させ、船でタインホアまで運んだという。
1407年(応永十四年)、中国明朝の大軍が胡朝領内に侵攻し、首都タインホアは陥落。胡朝は滅亡し、ベトナム北部は明朝の支配下となる。タインホアの胡朝城の発掘調査では、ベトナムの青磁や褐釉、白磁、中国の青磁などが出土。胡朝城は明朝支配期の明軍の駐屯地であったため、出土遺物は胡朝から明朝支配期の遺物群と考えられている。
この胡朝期から明朝支配期の青磁碗が日本の博多でも出土している。明朝は雲屯に市舶司を設置して西南諸国からの朝貢にあたっており、これらの青磁も明朝との交易の過程で日本にもたらされたと推測されている*1。
黎朝の時代
1418年(応永二十五年)、タインホアで挙兵した黎利は1428年(正長元年)に明軍を駆逐して黎朝をたてた。黎朝は外国貿易を奨励する政策をとり、明朝が海禁政策をとったこともあり、中国陶磁器の代替品としてハイズオン諸窯で生産された青花などが盛んに輸出された。
ベトナム中部のホイアン沖にあるクーラオチャム島周辺で発見された沈没船からは、総数24万点の陶磁器が引き揚げられているが、その大部分がベトナム陶磁だった。沈没年代は15世紀後半、ベトナム陶磁を積んで戻るタイ船と考えられている。
またフィリピン海域のパンダナン島沖の15世紀後半の沈船からは、ベトナム陶磁の青花約700点が中国の青花・青磁やタイの陶磁器などとともにみつかっている。ただ最も多かったのは、ベトナム中部で生産されたチャンパ陶磁 で、2000点以上にものぼっている。
琉球の首里城跡からも、多くの地点でベトナム陶磁の出土が確認されている。種類では青花が最も多く、ほかに白磁や青磁、鉄絵がみられる。青花は、白化粧を施した上で文様が描かれ、透明釉で文様の発色も良好であるとされる*2。
また首里城御内原北地区では14世紀から15世紀の陶磁器群とともに薄づくりの白磁小杯が出土している。同じ遺物は、ハノイのタンロン皇城遺跡や黎朝の祖廟ラムキン遺跡でも発見されているが、後世には類例がない。口縁と畳付を釉剥ぎし、内面に型押しによる竜文などを施しており、明りに照らすと透けて文様が浮き出るほど薄いという。明らかにそれ以前の初期鉄絵や白磁とは異なる作りであることから、新しい技術の移入による製作である可能性が指摘されている。
ジャワ島のベトナム産タイル
15世紀後半、ベトナム北部では主に青花で作られたタイルも生産していた。インドネシア・ジャワ島中部北海岸の古都デマの大モスク、東部ジャワのマジャパヒト王国都城跡であるトロウラン遺跡から出土している。なお、生産地であるベトナム北部での出土例はわずかしかなく、タンロン皇城遺跡と貿易港である雲屯の遺跡から出土した破片2点のみが知られている。
マジャパヒトの外港だったともされるジャワ島東部北海岸の港トゥバンでは、沖から中国龍泉窯青磁および福建系の青磁、少数のタイ・スコータイ鉄絵等が回収されているが、その中に14世紀前半のベトナム鉄絵も含まれていた。これらはトロウラン遺跡のあるマジャパヒトの王都への運ばれた可能性が高い。トロウラン遺跡からはタイルと同時期のベトナム青花も見つかってり、14前半の鉄絵から1世紀以上ベトナム陶磁が搬入されていたことがうかがえる。
そのような中で各種のタイルも運ばれたとみられる。嵌め込み用の脚部を持たない方形鉄釉が最も古く、14世紀後半にはもたらされていたと推定されている。そしてその次に緑釉のタイルが輸入されるが、これは形状から壁の装飾と推定されている。それは西方のイスラームタイルと類似することが指摘されており、その発注には14世紀後半にはトロウランに居住していたムスリムが関与した可能性が考えられるという。
黎朝の衰退と再興
1527年(大永七年)、武人莫登庸が黎朝の帝位を簒奪し、莫朝が興った。一方で1532年(天文元年)、阮淦がタインホアに逃れていた黎朝の王族を擁立して蜂起。1592年(天正二十年)には首都タンロン(ハノイ)を奪い黎朝を再興した。しかし黎朝後期の実態は、ベトナム北部に鄭氏政権*3があり、ベトナム中部ではフエに拠点を移した阮氏政権*4が存在するというものだった。
この時期、ベトナム北部には中国や東南アジア商人に加え、日本やヨーロッパの商船が頻繁に寄港した。1577年(天正五年)には中国明朝の漳州の商人がベトナム中部の順化地方で倭寇につかまり薩摩に拉致される事件が起きている。また1593年(文禄元年)には、薩摩から3隻の商船が「交趾」に向かったことが、薩摩に潜入した中国人によって報告されている(『敬和堂集』巻五「請計処倭酋疏」)。
16世紀後半から17世紀初頭の長崎の遺跡からは、日本からの注文品とされる北部ベトナム産の青花が出土しており、このごろには日本がベトナム北部と直接貿易を行っていたことがうかがえる。その後、朱印船貿易の時代となると、多数の朱印船がベトナムを目指した。
この時期の日本におけるベトナム陶磁には、白磁、青花、鉄絵、焼締陶器などがある。また伝世品として、「安南染付蜻蛉文茶碗」や「安南染付絵替菊形皿」が、焼締陶器では「南蛮切留花入」や「南蛮〆切糸目建水」、「南蛮縄簾水差」などがある。「安南染付」と呼ばれる青花は、日本以外では発見がなく、また意図的に口縁部をゆがめた製品があるため、日本からの注文品であった可能性が指摘されている。
焼締陶器は、ベトナムでは古くから生産されていたが、日本では16世紀以降の遺跡、特に長崎、大阪、京都に出土が集中する。その古い例では、大友府内町跡(大分市)で、島津の府内侵攻により被災したものを処分したと思われる1580~1590年代の遺構から中部ベトナム産焼締長胴瓶が出土しており、16世紀後半には焼締陶器が日本にもたらされていたことが分かる。器種では、長胴瓶や四耳壺、鉢、浅鉢などで、ベトナム北部産のものには胴部にいわゆる「縄簾文」が施される。