ジャワ島北岸に栄えたデマ(ドゥマク)王国の王都。同国はジャワ島で最初のイスラーム王国とされる。香料産地とマラッカとの中継港として栄えた。
デマ王国の建国
デマ王国はラデン・パターにより、1475年(文明七年)に建国されたとされる(『ババット・タナ・ジャウィ(ジャワ国縁起』)。ただラデン・パターの出自については諸説*1あり、必ずしも定かではない。
1514年(永正十一年)頃にマラッカに滞在していたポルトガル人トメ・ピレスは、デマの領主はパテ・ロディンで、同名の父は騎士(カヴァレイロ)、祖父はグレシク出身の領主の奴隷だったとしている(『東方諸国記』)。
王都デマの繁栄
王都デマの都市形態は、アルン・アルン(都市の中心広場)を中心とし、西にモスク、南に王宮、北に市場を配置するジャワ・イスラーム都市の原型であるとされる。
トメ・ピレスの『東方諸国記』よれば、当時のデマは約8000~1万戸の家があり、ジャワ最大の国であった。国内ではインドのクジャラートやケリン、ベンガル、そして中国の商品が大量に消費されたという。またデマには豊かな川があるが、満潮の時以外は、ジャンク船が入ることは出来ないともしている。(『東方諸国記』)。
デマは、マレー半島のマラッカやマルク諸島、スマトラ島北部のサムドゥラ・パサイと交易関係をもち、東部インドネシアの香料産地とマラッカとの中継地として発展した。その支配域は、パレンバン、ジャンビ、カリマンタン(ボルネオ島)に及んだという。
デマ王国の盛衰
一方でピレスは、現国王の父は、自分の支配下の諸国から40隻ものジャンク船を集めることが出来る人物だったが、現国王は若いため10隻も集まらないだろうと述べている。
当時のデマ王国は、東に接するマジャパヒト王国やポルトガル支配下となったマラッカ*2と争い、衰退していた。デマには、わずか5~6隻のパンガジャヴァ(細長く吃水の浅い船)しかなく、ジャンク船は1隻もなかったという(『東方諸国記』)。
その後、1521年(大永元年)頃にラデン・トゥレンガナが王となると、デマ王国は勢いを盛り返す。バンテンとスンダカラパを制圧して、バンテン王国を属国とした。またマジャパヒト王国に対しても、主要都市クディリを1521年(大永元年)に攻略し、その外港トゥバンも1527年(大永七年)に陥落させた。
しかし1546年(天文十五年)にトゥレンガナが戦死すると、後継者争いが起こる。王国は弱体化し、1568年(永禄十一年)にパジャン王国に吸収された。