戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

佐志 さし

 佐志川河口部の潟湖に面した港町。現在の佐賀県唐津市佐志地区。中世、松浦党・佐志氏の本拠となった。遺跡からは中世の湊の遺構が見つかっており、栄えた交易港であったことが推定されている。

松浦党佐志氏と朝鮮通交

 康永元年(1342)の佐志勤の譲状によると、佐志氏が領有していた「佐志村内」は、現在の松浦半島一帯の広範囲にわたって散在していた。また、内陸部ではなく、船で往来できる海または河川に面した土地(川湊)を有するといった特徴を持っていた。このことから、松浦党佐志氏は海・河川を主な活動の場としていたと考えられている。

 佐志勤は、佐志地区での寺院建立にも足跡を残している。光孝寺は、佐志勤によって貞和元年(1345)に開山したと伝えられ、佐志氏の菩提寺とされる。光孝寺の北の徳昌寺も勤によって康永年間(1342〜44)に創建されたと伝わっている。

 佐志氏は、15世紀を最盛期として朝鮮王朝との活発な通交を行った。『朝鮮王朝実録』によると、多い時は1年に7度の遣船を送ったとされる。また、佐志氏は壱岐島を朝鮮への中継基地として利用。同地に代官を置いていたが、文明四年(1472)に岸岳城主・波多氏の壱岐侵攻と前後して、壱岐での領地を失ったという。

佐志湊の遺跡

 佐志氏が本拠とした佐志の湊は、佐志川の河口西岸にあったとみられる。当時は小規模な袋状の潟湖があったとされ、この入海より湊が展開したとされている。河口東岸の独立丘陵地には、佐志氏の居城と推定される浜田城*1があった。

 河口西岸には、12世紀から16世紀の集落遺跡である徳蔵谷遺跡と佐志中通遺跡がある。徳蔵谷遺跡では、水際に向かって凸状に延び出すように石垣が積まれ、石垣に沿うように杭列が並ぶ遺構が見つかっている。荷揚げ場遺構と推定されている。

 その北側の約200メートル先には、大型の掘立柱建物跡があり、建物跡に伴う遺構から瓦器風炉、香炉、石臼など、茶道具と考えられる奢侈品が出土。領主クラスの館・屋敷地だと考えられている。また、大型建物跡に付随する施設として、建物跡の北側で池状遺構や堀跡が発見され、南には土師器皿窯跡や鍛治遺構など小規模な工房が見つかっている。

 佐志中通遺跡からは、平面5メートル×3メートル程の小型の礎石建物跡が検出されており、土蔵造りの倉庫と考えられている。また幅2〜3メートル程の道状遺構も検出されている。道の主軸は南北にあり、東西には約1〜1.6メートル程の小道が延びていた。延びた小道はそれぞれ区画を造り、各区画内より集石土壙や井戸跡などの生活痕跡を示す遺構が見つかっている。遺構の様相や出土遺物の多彩さから、市場の可能性が指摘されている。

出土した貿易陶磁器

 佐志中通遺跡では、多量の貿易陶磁器も出土している。市場において商取引されたものと考えられている。中国陶磁器の内訳は竜泉窯・同安窯系のほか、磁竃窯系黄釉盤や磁州窯系白磁鉄絵壺、青花碗・皿・杯など。

 朝鮮陶磁は高麗末期から朝鮮王朝前期の象嵌青磁、粉青沙器の瓶・碗・杯が多量に出土している。またベトナム産 白磁稜花皿や白磁鉄絵短頸壺といった東南アジア産の陶磁も出土しており、佐志の湊が交易港として栄えていたことがうかがえる。

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参考文献

  • 鮎川和樹 「佐志の湊」 (大庭康時・佐伯弘次・坪根伸也 『九州の中世Ⅰ 島嶼と海の世界』 高志書院 2020)

*1:近世末期に編纂された『松浦昔鑑』や『松浦古事記』の地誌には、佐志氏の居城とある。城跡では、山頂部を中心に曲輪、土塁、堀切などの遺構がみられ、その最終整備段階の下限は16世紀前葉に比定されている。