インド洋上の小島・モンバサ島北東部の港町。現在のケニア共和国南東部に位置する。12世紀にはアラブ人地理学者イドリーシーの地理書にその名がみえる。アフリカ内陸部との象牙交易と、その象牙を対価としたインド洋交易で栄えた。
東アフリカ海岸の隆盛
12世紀前半に著されたイドリーシーの地理書には、マルカ、ブラワ、バズーナ(バジュン)、マリンダ(マリンディ)、マンバサ(モンバサ)、バーニス、バツハナなど、東アフリカ地域の具体的な都市名が挙げられている。以前の時代の地理書には、漠然とした地名しか記されておらず、この地域の変化を物語っている。
イドリーシーの記述によれば、モンバサはマリンディの街から海岸に沿って2日行程の場所にあった。ザンジュ地方の小さな街で、同地方の王の居所と軍隊の居留地があり、住民は鉱山の鉄採掘や豹の狩猟に従事していたという。またモンバサとマリンディには、品物を頭の上や背中に乗せた人々がやって来て、そこで売り買いしたとも記している。取引センターとしても重要な街であったとみられる。
イブン・バットゥータの来航
1330年(元徳二年)、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、イエメンのアデンから紅海を渡ってザイラゥ*1に寄航した後、モガディシュ、モンバサを経てキルワに向かった。
バットゥータのモンバサ島滞在は1日であったが、『大旅行記』にその様子を書き記している。モンバサ島は規模の大きな島であり、「サワーヒル」*2の土地との間には、海を隔てて2日間の距離があるとする。
モンバサには、バナナ、レモン、シトロン等の果樹木があり、現地の人々が「ジャンムーン」と呼んでいるオリーブの実に似た果実は、とても甘いと感想を述べている。島では穀物栽培は行われておらず、「サワーヒル」からの輸入されたものだけだった。住民の主食は、バナナと魚だったという。
モンバサのモスクは、完璧によく出来た木造建てであり、モスクのそれぞれの入口のところには一つか二つの井戸があった。井戸とモスクの周りの地面は、平らに舗装されていて、モスクに入ろうとする人は、まず自分の両足を洗ってから中に入ることになっていたらしい。
ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡
モンバサから海岸線に沿って北約15キロメートルの位置に、ジュンバ・ラ・ムトワナ遺跡がある。モスク遺構の数から、住民の多くはイスラーム教徒であったとみられる。
中国磁器が出土しており、15世紀初頭以前の初期の染付(青花)や龍泉窯の青磁が見つかっているが、以後の時代のものは見つかっていない。これらのことから、14世紀に建設され、15世紀の早い段階には放棄されたと推定されている。
モンバサからも、元代の青花碗や明代の青花碗・皿が出土している。インド洋交易によって輸入されたものと考えられる。なおモンバサは、中国明朝には「慢八撤」として知られていた*3。
ポルトガル勢力の進出
1497年(明応六年)七月、ポルトガルのリスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマの船隊は、同年十一月末に喜望峰南端を回り、インド洋を北上した。『キルワ王国年代記』*4には、キルワ王のスルタン=フダイルの治世の時、イフランジュ諸地方の人々(ポルトガル人)が3隻の船団を率いて現れ、キルワ沖を通過してモンバサに入港したことが記されている。モンバサの首長は、当初は来航を喜んだものの、彼らを警戒する意見もあり、ポルトガル船団を座礁させようと計画。これを察知したガマ艦隊は、北のマリンディに向かったとしている。
1505年(永正二年)、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル艦隊がキルワやモンバサを攻撃。モンバサは激しい破壊と略奪にさらされたという。1517年(永正十四年)、インドからポルトガルへの帰路でモンバサに寄港したポルトガル商人バルボサは、「大量の金製・銀製の腕輪、耳飾り、ビーズや銅製の器具が略奪され、町は廃墟と化している」と記している。
その後もポルトガルの来寇は続いたらしい。イエメン南東部の港町シフルの記録には、1529年(享禄二年)に「サワーヒル地方から報告があって、フィランジュ(ここではポルトガル)の増援部隊がルーム(西ヨーロッパ地域)から到着し、モンバサを激しく破壊し、略奪した」とある(『ハドラマウト年代記』)。
モンバサはその後に復興し、以前の繁栄を取り戻していた。1569年(永禄十二年)にモンバサを訪れたイエズス会の神父は「(町は)大きく、繁栄している」「ドン・ペドロ総督が建設を命じた要塞の建設は中断され」「キリスト教文化も根付いていない」と記録している。
フォート・ジーザスの建設
1588年(天正十六年)、オスマン帝国の艦隊がモンバサに来航。しかしオスマン帝国・モンバサの連合軍は、ポルトガル軍に打ち破られた。これを機にポルトガルはモンバサ防衛のための要塞建設をはじめ、1593年(文禄二年)に要塞「フォート・ジーザス」を完成させた。
以後、東アフリカ沿岸部におけるポルトガルの拠点は、マリンディからモンバサへ移った。ポルトガルは、モンバサに税関を設置するとともに、マリンディ王を呼び寄せ、モンバサの統治にあたらせた。
要塞建設から約40年後の1631年(寛永八年)、モンバサで大規模な住民反乱が勃発。ポルトガルによって鎮圧されたものの、反ポルトガル感情は高まった。17世紀末、アラビア半島東南部のオマーン王国(ヤアーリバ朝)がモンバサを奪取し、東アフリカからポルトガル勢力を駆逐していく。