戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

モガディシュ Mogadishu

 インド洋に面するアフリカ東端の港町。現在のソマリア共和国の首都モガディシオ。12世紀後半から13世紀初め以後に、アデンからキルワ王国に至る航海上の寄港地として急速に発展した。織物や砂糖、象牙、黒壇等の特産品の輸出港としても知られた。

東アフリカ海岸の隆盛

 12世紀前半に著されたイドリーシーの地理書には、マルカ、ブラワ、バズーナ(バジュン)、マリンダ(マリンディ)マンバサ(モンバサ)、バーニス、バツハナなど、東アフリカ地域の具体的な都市名が挙げられている。以前の時代の地理書には、漠然とした地名しか記されておらず、この地域の変化を物語っている。

 さらに13世紀前半、地理学者ヤークートが著した地理事典『地理集成』には、上記の都市に加えてマクダシュー(モガディシュ)、ジャズィーラ・アル=ハドラー(ベンパ島)、キルワなどの重要な港市が交易活動で繁栄していたことが記されている。

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 12、13世紀、東アフリカ海岸には、多くのイスラム都市が建設されたことがうかがえる。モガディシュの建設は、12世紀後半、アブー・バクル・ブン・ファフル・ウッディーンによるといわれる。

 モガディシュにある3つの古いモスクの造営年号は、ヒジュラ暦636年(1238年、暦仁元年)、ヒジュラ暦667年(1268年、文永五年)とヒジュラ暦667年シャアバーン月(1269年、文永六年/五月)であり、いずれも13世紀に建設されている。

バットゥータの見たモガディシュの町

 1330年(元徳二年)、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、イエメンのアデンから紅海を渡ってザイラゥ(ゼイラ)*1に寄航した後、マグダシャウ(モガディシュ)を訪れた。その後、数日の滞在を経て、南に向けて出航し、モンバサを経由してキルワに向かった。

 バットゥータはモガディシュについて、極端にだだっ広い町であるとし、住民は富裕な商人たちであったと記す。彼らは多数のラクダを所有して、毎日数百頭のラクダを屠殺し、羊や山羊も多数所有していたとする。

 また特産の織物(マグダシャウ織物)に注目しており、他に比類のないものであって、エジプト地方やその他に輸出されているとしている。なお13世紀前半のヤークートは、モガディシュから輸出された商品として、蘇枋木、黒檀、龍涎香象牙を挙げている。また砂糖やビンロウジも特産で、アデンなどイエメンに輸出されている。

現地の料理

 モガディシュに入港したバットゥータ一行は、モガディシュのシャイフ(スルタン)であるアブー・バクル・ブン・シャイフ=ウマルの歓待を受けた。その際に出された食事についても詳しい記載がある。それは、バターで炊いたご飯であって、それを大きな木製の皿に盛り付け、そのご飯の上にはクーシャーン(一種のカレー汁、煮込み汁)の料理が添えられていた。クーシャーンとは、鶏肉、牛肉、魚と野菜などのおかず料理のことであるとしている。

 また未熟のバナナをミルクで煮て、それを皿に盛ったものや、凝乳に漬けたレモン、酢と塩で漬けた粒胡椒、緑生姜(生の生姜)、マンゴーを添えたものも出された。モガディシュの人々は、ご飯を一口食べると、その後にこうした塩漬けや酢漬けを食べるのだという。また現地の一人分の食事の分量は、バットゥータ一行全員の分量に匹敵するほどであったとも記している。

モガディシュの商習慣

 ヤークートやバットゥータは、モガディシュにおける特徴的な商習慣にも言及している。すなわち、外国の商船が入港すると、小型の艀舟(カーリブ)であるスンブークに乗って港の仲介者(地元の主人、船宿の所有者)が接触してくるのだという。

 来航した客商は、土着の商人・仲介者である主人のところ(船宿)に滞在することになっていた。この間、家の主人は商人が持ってきた商品を預かって売り捌いたり、また商人が希望する商品の仕入れを行った。

 これは外来の商人が、言葉や商習慣、宿泊場所、市場の状況等についての知識を持っていなくても、安全に滞在し、適正価格による商取引を保障するシステムであったと考えられている。

中国明朝艦隊の来航

 15世紀初め、中国明朝の第3代皇帝・永楽帝と第4代・宣徳帝は、太監鄭和の指揮する大船隊を西方に向けて派遣した。第四次遠征*2以降、遠征隊はインド・マラバール海岸のカリカットを越えてインド洋の西海域にまで進出。分遣隊は東アフリカ海岸の諸港*3も訪れた。

 明朝の記録にモガディシュは「木骨都束」として見え、第四次、第五次、第六次と分遣艦隊が来航した。永楽十四年(1416年、応永二十三年)十一月、明朝に対し、古里(カリカット)、溜山(モルディヴ)、忽魯謨廝(ホルムズ)、阿丹(アデン)、剌撤(ラァス・ファルタク)、木骨都束(モガディシュ)、不剌哇(ブラワ)、麻林(マリンディ)などから貢物があったことが、『皇明実録』にみえる。第四次の分遣隊の帰還を伝えたものとみられる。

 『宣徳二碑文』によれば、木骨都束国が花福鹿(しまうま)と獅子を献上したとある。第五次の分遣隊がモガディシュに来航し、皇帝への献上品を託されたものと思われる。

 『皇明実録』には永楽二十一年(1423年、応永三十年)九月にも、木骨都束(モガディシュ)を含む多くの国々*4の使者の来朝があったことがみえる。第六次の分遣隊の帰還があったとみられる。

参考文献

  • 家島彦一 「15世紀におけるインド洋通商史の一齣 : 鄭和遠征分隊のイエメン訪問について」(『アジア・アフリカ言語文化研究』No.8 1974)
  • 家島彦一 『海が創る文明 インド洋海域世界の歴史』 朝日新聞社 1993
  • 家島彦一 「海域世界を股にかける海上商人たち」(『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』 2006 名古屋大学出版)
  • 家島彦一 『イブン・バットゥータと境域への旅』 名古屋大学出版会 2017
  • 家島彦一 訳 『大旅行記3』 株式会社平凡社 1998

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ソマリアモガディシュのアブディアジズ・モスク改修のミナレット

*1:紅海の出入口、バーバルマンデブ海峡の北東アフリカ側の交易港。

*2:第四次遠征の出使は永楽十年、1412年(応永十九年)。本隊が帰還したのは永楽十三年、1415年(応永二十二年)。

*3:明朝の記録には、木骨都束(モガディシュ)、不剌哇(ブラワ)、竹歩(ジュッブ)、麻林(マリンディ)、慢八撤(モンバサ)がみえる。

*4:東南アジアのスムトラ、マラッカ、インド洋ののカリカットコーチンスリランカ、マルディヴ、ペルシア湾沿岸のホルムズ、南アラビア半島のアデン、ズファール、東アフリカのモガディシュ、ブラウなどがある。