ケニア南部、インド洋に面する港町。12世紀にはアラブ人地理学者イドリーシーの地理書にその名がみえる。インド洋交易で栄え、15世紀初頭には中国明朝の使節も来航。15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマ来航以後は、ポルトガルと協力関係を結んだ。
東アフリカ海岸の隆盛
12世紀前半に著されたイドリーシーの地理書には、マルカ、ブラワ、バズーナ(バジュン)、マリンダ(マリンディ)、マンバサ(モンバサ)、バーニス、バツハナなど、東アフリカ地域の具体的な都市名が挙げられている。以前の時代の地理書には、漠然とした地名しか記されておらず、この地域の変化を物語っている。
イドリーシーの記述によれば、マリンディから海岸沿いに二日行程の場所にモンバサの街があった。人々は品物を頭の上や背中に乗せて、マリンディとモンバサに運んできて、そこで売り買いをする、と記している。
マリンディ近郊のゲディ遺跡は12世紀頃に築かれ、15世紀に最盛期を迎えたとみられている。同遺跡からは、中国南宋の13世紀前半頃の古銭(慶元通宝・紹定通宝など)とともに中国磁器が多数出土。宋や元の時代の白磁や龍泉窯の青磁碗、元代の青花碗や大皿、明代の青花碗や皿、鹿文芙蓉手の青花皿等が見つかっている。
またマリンディの港近くにあるジャミア・モスクに隣接する墓地には、高さ9メートルの柱墓が残る。墓を取り囲む低い塀の外壁には、陶磁器が埋め込まれたと思われる凹みが並んでいる*1。
中国明朝艦隊の来航
15世紀初め、中国明朝の第3代皇帝・永楽帝と第4代・宣徳帝は、太監鄭和の指揮する大船隊を西方に向けて派遣。第四次遠征以降、遠征隊はインド・マラバール海岸のカリカットを越えてインド洋の西海域にまで進出した。
第四次遠征の分遣隊は、スマトラからモルディヴ諸島を経て、東アフリカ海岸のモガディシュ、ブラワ、マリンディまで南下し、そこから北上してイエメンのアデン、ズファールに寄って帰還したものと考えられている。
永楽十四年(1416年、応永二十三年)十一月、明朝に対し、古里(カリカット)、溜山(モルディヴ)、忽魯謨廝(ホルムズ)、阿丹(アデン)、剌撤(ラァス・ファルタク)、木骨都束(モガディシュ)、不剌哇(ブラワ)、麻林(マリンディ)などから貢物があったことが、『皇明実録』にみえる。第四次の分遣隊の帰還を伝えたものとみられる。マリンディからは「麒麟」が運ばれて皇帝に献上された。
ヴァスコ・ダ・ガマの来航
1497年(明応六年)七月、ポルトガルのリスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマの船隊は、同年十一月末に喜望峰南端を回り、インド洋を北上。キルワ沖を通過してモンバサに寄港した後、1498年(明応七年)四月十三日、マリンディに入港した。
ガマの船隊の乗組員が記した『ドン・ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海記』によると、ガマはマリンディの王の部下を人質にとり、インドへの水先案内人の提供を求めた。すると王はキリスト教徒の水先案内人を差し向けて、目的地のインド・カリカットに関する情報を与えたという。
なお、カリカットなどのインド・マラバール地方の港市には、シリア系キリスト教徒が6世紀頃には存在していたとみられる。15世紀後半には、彼らマラバール地方のキリスト教徒たちは東アフリカ海岸の諸港市にも進出。ガマの航海記によると、すでにモザンビーク、モンバサ、マフィア、そしてマリンディなどに多数のキリスト教徒が居住していた。
インド・クジャラート地方との交易
マリンディの王は、ガマ一行にインド・マラバール地方への海路を示した。しかしマリンディはむしろマラバール地方と競合関係にあったインド・クジャラート地方との結びつきが強かった。
16世紀前半、ポルトガル人のトメ・ピレスは、クジャラート地方の港市カンバーヤには、多くの国々から商人が来航していると記しているが、その国々にマリンディやキルワ、モガディシュ、モンバサ等の東アフリカ沿岸の港市の名もみえる。またカンバーヤに来航した商人の一部には、この地を中継地として、さらに東南アジアのマラッカにも商品を運んだ者もいたという*2。
16世紀以後のマリンディ
1518年(永正十五年)に編纂された『ドゥアルテ・バルボサの書』には、マリンディの町について以下のように記されている。
多くの立派な石ないしモルタルの、何階もある家々で、われわれの様式と同じような非常に多くの窓や平たい屋根を持っている。
マリンディは、ガマの来航以来、ポルトガルに協力することで繁栄した。16世紀後半にポルトガルがモンバサを攻略した後は、マリンディの王がモンバサの統治にあたった。しかし、ポルトガルの拠点がモンバサに移ったことで、16世紀末以降、急速に衰退したという。