戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

キルワ Kilwa

 アフリカ東岸沖に浮かぶ小島キルワ・キシワニの港町。現在のタンザニア連合共和国リンディ州キルワ県。キルワ王国の王都であり、金や象牙、奴隷などの貿易によって繁栄した。

キルワ王国の繁栄

 『キルワ王国年代記』の伝承によると、イラン地方のシーラーズ出身の7人の移住者たちは7艘の船に分乗すると「スワヒリの土地」に向かって旅立ち、そのうちのアリー・ブン・アル=ハサンはヒジュラ暦3世紀半ば(860年代)、キルワに最初の統治を確立したという。

 12世紀に入ると、スルタン=ダーウード・イブン・スライマーンは「貿易の長」と呼ばれ、アフリカ南部の内陸部にあるグレートジンバブエ経由で海岸部のソファラまで運ばれる金や銅、象牙、奴隷、動物皮革などを独占的に入手した。そしてダウ船に乗って来航するアラブ・イラン系商人たちとの交易取引で織物、陶器、磁器類、中国の銅銭やガラス製装身具などを購入・転売することで、経済的繁栄と王権の拡大を遂げた。

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 スルタンは、首都キルワの要塞を拡充して権力基盤を安定させるとともに、周囲の島嶼部のペンバ、ザンジバル、マフィア、モンバサなどにも勢力を拡大。東アフリカ海岸最大の港市王国を築いた。

 13世紀前半、ヤークートの地理事典『地理集成』にも、マリンディやモンバサ、モガディシュ、そしてキルワなど東アフリカ沿岸の港市が、交易活動で繁栄していたことが記されている。

イブン・バットゥータの見たキルワ

 1330年(元徳二年)十二月頃、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータが、東アフリカ海岸沿いにモガディシュ、モンバサを経由してキルワを訪れている。バットゥータはキルワの町について、「海岸に沿った規模の大きな町で、そこの住民の多くは漆黒のザンジュ人たちである。」と述べ、「(東アフリカ海岸にある)諸都市のなかで最も華麗な町の一つ、最も完璧な造りである。」と旅行記に記している。

 バットゥータはまた、「町のすべては木造であって、雨が多いので家々の屋根はディーズ葦で葺いてある。」とも記す。しかし、近年の考古学的な発掘調査によれば、当時のキルワの町の中心部であるスルタンの王宮、金曜大モスクと町の一部は、すべて堅牢な周壁を持つ石造りの城塞都市であったという。実際は、珊瑚石を四角のレンガ状に切って積み上げ、その表面にモルタル石灰を塗った堂々たる白亜の構造物があったと考えられている。

ポルトガル勢力の登場

 1497年(明応六年)十一月末、喜望峰南端を回ってインド洋に出たポルトガルヴァスコ・ダ・ガマの一行は、東アフリカ海岸を北上してモザンビークに入港。その後、キルワ沖を航行しモンバサを経てマリンディに入港した。ガマ一行は、ここで現地の水先案内人の協力を得てインド洋を横断し、インドに至った。当時のキルワ王国はスルタン=フダイルの治世であり、ガマらポルトガル艦隊の動向を警戒していたことが『キルワ王国年代記』の記述からうかがえる。

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 ヴァスコ・ダ・ガマは、1502年(文亀二年)にもキルワに来航。軍事力でキルワ王国を服属させた。この時の随行員が、キルワの町を記録している。

 これによれば、キルワの町は大きく、石とモルタル造りでテラス付きの立派な建物、そして民家はほとんどが木造造りであった。町は海岸まで下り、壁と塔によって全体が囲まれ、そこに1万2000人の住民がいると見積もっている。そして、周りがすべてあらゆる種類の野菜、シトロン、レモン、今まで見た中でも最も甘いオレンジ、砂糖黍、イチジク、ザクロといった多くの樹木と庭園、さらに非常に豊富な家畜、とくに羊や山羊などに溢れていたとする。

 町の道路は非常に狭いが、家々は三・四階建てて、とても高層であり、テラスの上を彼らの屋根伝いに渡ることができるほどだったという。また港には、多数の船があるとも述べている。

王国の滅亡

 16世紀半ばに入ると、キルワ王国の繁栄を支えていた金貿易が衰退。さらにポルトガル勢力の侵攻と交易ルート支配が王国を圧迫した。加えて内陸部からのガッラ系やジンバ系遊牧民の侵入があり、急速に滅亡した。

参考文献

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タンザニア キルワ遺跡 ゲレザポルトガルが築いた要塞跡)