戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

梨子羽 元春 なしわ もとはる

 沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は右京亮。元位の子か。大内義興に従い、幕府から梨子羽郷地頭公文両職などを安堵された。

足利義伊・大内義興の入京と知行安堵

 永正五年(1508)六月、大内義興は前将軍・足利義伊(義材)を奉じ、安芸・備後・石見等の国人衆からなる大軍を率いて京都に入った。将軍足利義高(義澄)は、既に近江国に退去しており、翌月、義伊は再び将軍職についた。

 梨子羽元春は、大内義興に従って上洛していたとみられる。翌永正六年(1509)八月、幕府は義興に対し、元春の申請の通り梨子羽郷地頭公文両職、安直本郷内時弘名、北城新田真良貳分方等を安堵することを伝えている(「小早川家証文」)。

 この時の元春の立場は判然としない。後述のように、惣領家・沼田小早川氏は将軍足利義高(義澄)方であったので、惣領家から一線を画す動きにも見える。ただ上洛直前の永正五年(1508)五月、惣領家も足利義伊に忠誠を誓っているので、沼田小早川氏庶子家としての動きだった可能性もある。

 いずれにしても、梨子羽氏が大内氏(あるいは大内方の竹原小早川氏)との関係を強めていたことがうかがえる。

沼田小早川氏の状況

 当時の沼田小早川氏惣領家の立場は、微妙なものだった。明応の政変で京都を追われた足利義伊は、明応九年(1500)三月に大内義興を頼って周防山口に入り、沼田小早川扶平に対しても味方になるよう誘っていた。しかし扶平は、京都の将軍足利義高(義澄)と管領細川政元による大内義興討伐命令を受け、敵対の姿勢をとった。

 永正四年(1507)六月、細川政元が養子に殺害され、細川氏が混乱に陥ると、上記のように大内義興・足利義伊の上洛が本格化する。そんな中の永正五年(1508)正月、当主・小早川扶平が死去。同年五月、沼田小早川氏は、上洛中の足利義伊に対し、太刀と銭貨を贈って忠誠を誓っているが、仲介した義伊近臣の一色伊泰からは明確な返答を得られなかった(「小早川家証文」)。

 そして結局、沼田小早川氏の臣従は容れられなかった。永正八年(1511)八月、将軍足利義稙(義伊)は、扶平の跡を継いだ小早川小法師丸(後の興平)の家督と所領一円を取り上げて、竹原小早川弘平に与えるとする御教書を出している(「小早川家証文」)。

梨子羽康平

 梨子羽元春の、永正六年(1509)以後の行動は分からない。ただ、大永六年(1526)七月、小早川氏奉行人連署書状に梨子羽康平の署名がみえる(「譜録」乃美右衛門国興)。康平は、沼田小早川扶平の弟。惣領家から養子として送り込まれて、梨子羽氏の家督を継いだと推定される。

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参考文献

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梨子羽氏の居城と推定される畑木山城(梨羽城)跡の一郭から見た二郭。