戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ムハンマド・シャー Muhanmad Shah

 中国南宋港湾都市泉州にて1272年(文永九年)に没した人物。ホラズム出身の王族であったとされる。

泉州モスクのアラビア語墓碑

 1272年(文永九年)四月五日、中国南宋港湾都市泉州において、あるムスリムの貴人が没した。泉州元朝支配下に入る4年前のことだった。

 泉州清浄寺内には、その没年を刻むアラビア語墓碑が保管されており、墓碑には次のように刻まれている。

殉教者、異邦人、フワーリズム出身のシャーの子息、ムハンマド・シャーの墓なり。神の御慈悲のもとへ。神よ、彼、並びに敬虔なる男女たち[の罪]を赦し給え。

 この碑文の中のフワーリズム(ホラズム)出身のシャーとは、ホラズム・シャー朝の王族の子孫の一人であることを示している。最後のホラズム・シャー朝のスルタンとなったジャラール・ウッディーンは、1231年(寛喜三年)八月に北イラクのアーミド郊外でクルド人に殺害されたと伝えられている。

 それから半世紀ほど後に、ホラズム・シャー朝の王族の一人がはるばる中国まで逃れて、泉州で他界したことになる。あるいは生死不明となったジャラール・ウッディーン・マングビルティーその人である可能性もゼロでは無いとされる。

 なおこの墓碑は元来、泉州東郊の霊山にあるムスリム聖人墓地にあったといい、特別な崇拝を受けていた可能性があるという。

ホラズム・シャー朝遺民の中国来住

 ホラズム・シャー朝の由来となった狭義のホラズムは、西トルキスタンにあって、アム河の下流アラル海の南岸の現ウズベキスタンのホラズム州を中心とする地方を指す。この地域の出身者、つまり狭義のホラズム人たちは高度な文化・経済水準を誇り、また偉大な旅人でもあり、商人として南ロシアからドナウ河流域まで幅広い地域で活躍した。

 中国沿岸部では、ムハンマド・シャーのような外来系ムスリムたちの来歴と没年を記したアラビア語銘文をもつ墓石が多数発見されている。このうち、狭義のホラズム出身者は泉州に1件、福州に1件ある。さらに旧ホラズム・シャー朝領のイラン・トランスオクシアナの地名のものは、全体のほぼ半数を占めている(32件のうち17件)。それらのほとんどが、モンゴル帝国元朝期に該当する。

 このことは、旧ホラズム・シャー朝の遺民たちが中国沿岸部のムスリム共同体のなかで、重要な位置を占めていたことをうかがわせる。彼らが、ホラズム・シャー朝の王族の墓を崇拝したのは、高貴な血筋のため、というよりも、その死の悲劇性や異邦人としての死という点に殉教性が見い出されたため、ともされる。

参考文献