戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

プリカット Pulicat

 巨大なプリカット湖(潟)と海を隔てるシュリーハコータ島の南端部に形成された港町。14世紀頃から多くの商船が集まる商業都市として繁栄した。17世紀にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、コロマンデル地方における同社の中心拠点となった。

ヴィジャヤナガル王国の港

 プリカットは、ヴィジャヤナガル王国のデーヴァラーヤ2世の時代(1422ー46)に、この地方を治めたアーナンダラーヤという人物の下で発展。彼の名にちなんでアナンタラヤン・パッティナムと呼ばれていた。

 またタミル語名でパラヴェールカドゥとも呼ばれており、後にポルトガル人はPaleacateと呼んだ。この呼称が17世紀以降に、オランダ語の呼び名であるPaleacatteや英語のPulicatのもとになった。

刻文史料にみる繁栄

 1521年(大永元年)、南インドの半島東部にあたる広大な地域の商人組織(ナガラム)の者たちが、ナーガラープラム(プリカットからアーラニ川上流60kmの町)のヴィシュヌ寺院の境内に集まり、寺院の祭りの費用を拠出することを決定。この時の記録が刻文として寺院に残されている。

 刻文に記される商人組織(ナガラム)の含まれる地域(広域行政区分)としては、現在のアーンドラ・プラデーシ州南部からタミル・ナードゥ州北・中部にかけて存在したチャンドラギリ・ラージャム、パダイヴィードゥ、チョーラマンダラムの名がみえる。それらの商人組織の代表としては、チェッティ(南インド・タミル地方の有力商人カースト名)という語を名の一部にもつ人物が7名おり、ほかにアナンタラヤン・パッティナム(プリカット)の町の代表者が挙げられている。

 その祭りは、彼ら商人たちが寺院の中に建てた塔頭の主神のためのもので、醵金は商人組織のメンバーの家の大きさにしたがって、1軒ごとの額が定められた。また、パラヴェールカードゥのような港湾都市では、帆船に積まれる反物一巻について、1パナム、ほかの輸出品については、一品ごとに4分の3パナムというふうに定められている。

 上記のことから、当時のプリカット(パラヴェールカードゥ)が帆船の集まる大きな港町で、そこから綿布を中心とする商品が積み出されていたことが確認できる。

 なお、プリカットには「アンジュヴァンナム通り」と呼ばれるムスリムの居住区が存在する。アンジュヴァンナムは「五百人組」とならんで中世の南インドで活躍した外国商人の組織であり、この町には大勢のアラブ商人も居住していた可能性が指摘されている。

オランダの進出

 プリカットはヴィジャヤナガル王国の王都ヴィジャヤナガラとの結びつきで繁栄していた。しかし16世紀後半、ヴィジャヤナガル王国が周辺国との戦争などで衰退。さらにコロマンデル沿岸各地に住み着いたポルトガル人による交易活動の拡大の影響もあって、16世紀末までには、以前の活況を失っていたという。

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 17世紀に入るとオランダがコロマンデル海岸に進出。1606年(慶長十一年)、北部のマスリパトナムとペッダパッリに同地域の最初の商館を開いた。さらに1610年(慶長十五年)、ヴィジャヤナガル王国からプリカットへの商館設置を認められ、やがてここをコロマンデル地方の主商館と定めた*1

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 コロマンデル地方は後背地に織物の大生産地を持地、とくにプリカットの後背地では東南アジア市場向け織物の生産が盛んであったという。当時、インド産綿織物はインドネシア海域で香辛料を手に入れる際の交換商品として欠かせないものであった。またポルトガル人たちの勢力がインド西海岸に比べて弱いという点もオランダには重要であった。

 しかし現地の港務長(シャー・バンダル)などの有力者との衝突や、南方に近接するサントメポルトガル人の妨害の為、プリカットでのオランダ東インド会社の活動はなかなか順調には進まなかった。1612年(慶長十七年)6月には、プリカット商館はポルトガル人の攻撃を受け、商品を略奪された上に、上級商務員を含む駐在員が捕虜としてサントメに連行される、という事件が起こっている。

 事件と同じ年の10月、商館長ファン・ベルヘムはヴィジャヤナガル宮廷に赴いて、12月、新たな勅許を得てプリカットに要塞を持つことを認められた。

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ヘルドリア要塞

 ファン・ベルヘムが得た勅許では、要塞はプリカットを領地とする妃の一人の費用によって建設され、完成後は妃の部下によって警備されること、そしてオランダ東インド会社は要塞の半分を利用することが定められていた。ところが、実際には妃の費用負担による建設は進まず、結局、全額をオランダ東インド会社が負担して工事を完遂。1613年(慶長十八年)、ヘルドリア要塞は4つの稜堡を持つ要塞として完成した。

 要塞建設の目的は、上述のようなポルトガルなど他勢力の攻撃に対応する為であった。1613年7月、完成後間もないヘルドリア要塞を600〜700人の軍勢が攻撃。オランダ東インド会社は、ヴィジャヤナガル王や港務長(シャー・バンダル)などの援助を受けてこの危機を切り抜けている。こうした状況を受けてファン・ベルヘムはバンテンの東インド総督に対して、この新要塞の防備のために可能な限り早く150人の兵士と8〜10基の大砲と100丁のマスケット銃を送って欲しいと要請していた。

 このように防衛力維持のため、プリカットには多数の兵士が置かれるようになった。彼らは要塞の外に住んでいたとみられ、17世紀のヘルドリア要塞の周辺には、100人を超えるオランダ人兵士とその家族が住む居住区が形成されていたと考えられている。

濠址出土の陶磁片

 往時のヘルドリア要塞には濠が巡らされており、濠の内側の土手でかなり数に上る陶磁片が採取されている。数が多いのは、中国の福建省漳州窯系のもので、年代は全体として14世紀末から17世紀前半にかけてのものとされる。中国のものとしては、ほかに、景徳鎮と福建・広東系の白磁と染付、龍泉の青磁があり、中国以外のものとしてタイ(福建の可能性もある)の青磁片もみつかっている。

 14・15世紀の中国陶磁片が採取されていることから、上述の16世紀のナーガラープラム刻文の時代よりも以前から、プリカットが外国貿易で繁栄していたことがうかがえる。

南インドの争乱

 1641年(寛永十八年)、ゴールコンダ王国が南方のヴィジャヤナガル王国領へ侵攻。ミール・ムハンマド・サイードに率いられたゴールコンダ軍はプリカット湖と海の間のシュリーハコータ島などを占領し、プリカットやマドラスを含む沿岸部を勢力下においた。ムハンマド・サイードはゴールコンダ王国のスルターン・アブドゥッラーとの不和からムガル朝に仕えるが、ムガル朝内部の皇位継承戦争が激化する中で影響力が低下。1658年(万治元年)、ゴールコンダ王国の武将ニークナーム・ハーンが改めてこの地方を占領した。

 上記のように政治情勢が不安定な中で、イギリスとの戦争の懸念もあることから、ヘルドリア要塞の防備増強と共にプリカットの町に対する防御も図られた。1660年、ニークナーム・ハーンは「住民たちの費用で」プリカットの町の周囲に「石の壁」を建てることを許可。しかし建設準備が既に始められていたにもかかわらず、許可を撤回した、と伝えられた。

 1665年(寛文五年)、ようやく市壁の建設が始められ、その年のうちに町は壁で囲まれた。しかしそれは、ヘルドリア要塞の城督スペールマンの目には大したものとは見えなかったという。1660年代末からマドラスをはじめとするインド各地で過ごしたトーマス・バウリーも、マドラスとプリカットを比べて「我々(マドラス)の外塁は彼らのものを遥かにしのぐ」と述べている。

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 1681年(天和元年)、ムガル朝の君主アウラングゼーブは最終的なデカン以南の平定に乗り出す。戦火が拡大する中で、オランダの17人重役会が査察に派遣したファン・レーデは、オランダ東インド会社のコロマンデル主商館をプリカットから南方のナーガパッティナムに移すことを決定。1690年(元禄三年)にその決定は実行された。

参考文献

  • 辛島昇 「十三~十六世紀、コロマンデル海岸の港町―刻文史料と中国陶磁器片にみる」 (歴史学研究会編 『港町の世界史① 港町と海域世界』 青木書店 2005)
  • 和田郁子 「要塞、市壁、「石の商館」ーインド・コロマンデル海岸の港町:1606ー1707ー」(『史林』95 2012)

プリカットの鳥瞰図 1682年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

アジア図(ウィレム・ヤンソン)1635年頃 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※プリカット(Paleacate)周辺を切り取り加工しています

*1:コロマンデル地方各地に築かれたオランダ商館は南北に大きく分けて管轄され、マスリパトナムが北部の、プリカットが南部の第一の商館とされた。同時にプリカットには南北の全商館を統括する役割が与えられた。