戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

サドラス Sadras

 インド東岸のコロマンデル海岸の港市の一つ。綿布などの輸出港として周辺の商品生産地と連携しながら栄えた。17世紀以降、オランダ人などヨーロッパ勢力が進出した。

聖地ティルカリュクンドラム

 サドラスから10キロほど離れた場所に位置するヒンドゥー教の聖地ティルカリュクンドラムのシヴァ寺院には、サドラスに言及する14世紀末から15世紀初頭にかけての刻文が残っている。

 その一つに、ヴィジャヤナガル王国の皇太子カンパナがこの地を統治していた1374年(応安七年)の刻文がある。この刻文は、ティルカリュクンドラムに住む「カイコーラル」(織布工のカースト)の租税について、かつてあった様々な租税を停止し、年に支払う定額租税として70ポンの金貨に決定したとする、カンパナまたはその代官の決定を伝えている。

 刻文には、以前の租税についても記されており、その中には、この村のカイコーラルたちがパッティナム(サヴィラヴァーサガン・パッティナム、すなわちサドラス)にもって行く布地や、彼らがパッティナムから仕入れてくる様々な商品に対してかかる税もあった。ティルカリュクンドラムの「カイコーラル」たちが、日常的にサドラスに布地を売りに行き、そこで様々な商品を買い込んでいたことがうかがえる。

 当時のヒンドゥー寺院は、周囲の通りに織布工その他の職人カースト、さらに、いろいろな商人カーストを住まわせていた。そして職人たちによる綿布等その他の生産を組織し、商人たちには金銀、香料、外国からの奢侈品や嗜好品販売を行わせる、生産と流通センターとしての役割をも果たしていたという。

 実際、同じ寺院の壁面に残る1406年(応永十三年)の刻文からは、ティルカリュクンドラムに多様な商人が住んでいたことが分かる。

 すなわち、チェッティと呼ばれるタミル地方の貿易商、カヴァライと呼ばれるアーンドラ地方の貿易商のほか、布地の卸商、灯明などの油を扱う商人、嗜好品であるパーンのためのキンマの歯を売る商人などが住んでおいた。そして彼らが支払っていた全ての種類の租税を免じて、これを祭礼の費用に充てる、とするヴィジャヤナガル王の代官の決定が刻まれている。

 サドラスは上記のような職人、商人を介して、生産・流通拠点であもるディルカリュクンドラムと密接に結びついていたと考えられる。

様々な地域の商人たちが住む

 さらに1376年(永和二年)の刻文には、サドラスの商人たちがティルカリュクンドラムのヴィシュヌ寺院での供儀と修理のために醵金を決定したことが刻まれている。

 この醵金を行うのは、サドラス元来の住人である「ウーラヴァル」、外国や北インドからやってきた商人とみられる「パラデーシヘル」、南インドのギルド(「五百人組」)の商人とみられる「ナーナーデーシヘル」らであった。彼らが取り扱っていた真珠や布地、様々な国の商品について賦課を行い、徴収したお金を神への供儀と寺院修繕のための費用に充てる、というものだった。

 当時のサドラスには、様々な地域の商人たちが居住していたことがうかがえる。また彼らがティルカリュクンドラムの寺院への寄進を取り決めていることは、彼らとティルカリュクンドラムとが強い結びつきを持っていたことを示しているとされる。

ヨーロッパ勢力の進出

 1647年(正保四年)、ヨーロッパ勢力としては初めてオランダがサドラスに進出する。彼らの目的は上質のモスリン(織物)の買い付けであった。

 18世紀初めにオランダが海岸に構築した城砦は、城壁は残っているものの、内部の建物はかなり崩れ落ちてしまっていた。城砦からは、かなりの数に上る中国陶磁片が採取されているが、それら全て17・18世紀のもので、多くは景徳鎮、ほかは南方系の窯で焼かれたものとみられている。

 1795年(寛政七年)、オランダに革命が起こると、この町はいったんイギリスの手に落ちた。後にまた返還されるが、1824年(文政七年)、最終的にイギリスのものとなった。しかしインド東岸では、イギリスの拠点であるマドラスが発展しており、サドラスの城も港も放置された。1879年、当時のサドラスの人口や約2000人であったという。

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参考文献

  • 辛島昇 「十三~十六世紀、コロマンデル海岸の港町―刻文史料と中国陶磁器片にみる」 (歴史学研究会編 『港町の世界史① 港町と海域世界』 青木書店 2005)

アジア図(J・B・ホーマン)1716年頃 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※コロマンデル海岸(Coromandl)周辺を切り取り加工しています