戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ミール・カマールッディーン Miercamaldijn

 マスリパタムを拠点に活動した大商人。ペルシア出身。ベンガル湾沿岸部の交易に関わる一方で、マスリパトナムの有力者の一人としてオランダと総督(ハヴァールダール)の仲介も行っている。後に故郷であるペルシア方面へも交易船を派遣している。

多角的な経済活動

 史料上の早い事例では、1608年(慶長十三年)、オランダの報告書において「マスリパトナム在住の有力な商人」であると記されている。1610〜20年代に書かれたオランダやイギリスの史料から、彼の経済活動が多方面に拡大していった様子がうかがえるという。

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 1614〜15年(元和元年)ごろ、オランダ船に自分の積荷をバンタムまで運んでもらっており、1616年(元和二年)ごろまでには海上交易に加えてビジャープルやゴア、スーラトといったインド各地の重要都市との間を陸上で結ぶキャラバンによる交易活動にも参入していたといわれている。

 1620年代には、ベンガル地方とマスリパトナムを結ぶ交易において大きな役割を担っていたとみられ、ミール・カマールッディーンの船はベンガル地方のみならず、ペグーやアチェなどとの間も行き来していた。さらにマスリパトナムの北東、ゴーダーヴァリー川のデルタ地帯にあるナルサプルの町とその周辺の管理権も獲得しており、そこでゴールコンダ王国のスルターンのために大型船を造らせていたという*1

マスリパトナムの有力者

 ミール・カマールッディーンは、マスリパトナムにおいては総督(ハヴァールダール)や港務長(シャー・バンダル)のような任に就いてはいなかった。しかし、永年にわたってその地に住んで商売を営み、社会の中で大きな力を持っていたとみられる。

 オランダ東インド会社のマスリパトナム商館長マールテン・ファン・ロッセンが、1626年(寛永三年)3月から1628年(寛永五年)9月までの期間に記した商館日記(以下「日記」)が現在も史料として残っている。この「日記」によると、ミール・カマールッディーンは勅令が読み上げられる際などには、高官たちとともに席を連ねており、ゴールコンダ王国側の情報をファン・ロッセンに伝えたりもしている。

 ミール・カマールッディーンとオランダは友好関係にあった*2。ある時、ミール・カマールッディーンがマスリパトナム周辺や郊外には泥棒が多いから気をつけるように、とオランダ商館に警告を与え、これに従ってファン・ロッセンらは警備の者を置くようにしたという。

 また1626年(寛永三年)8月、当時、マスリパタムの総督(ハヴァールダール)の職にあったムッラー・ムハンマド・タキーが、オランダの商館員に対して年税3000パゴダの即時支払いを要求するとともに、商館員を監禁する事態が起こる。この時、ミール・カマールッディーンは即座にムハンマド・タキーのもとに赴き、話し合ってこの商館員を解放させたという。

オランダの交渉の仲介者

 オランダ商館員監禁事件と同じ年の9月、ハヴァールダールによって町の中で自由な取引を妨げられたオランダが、商品である香辛料をマスリパトナムの外に運び出して販売しようと試みたことがあった。

 9月23日、マスリパタムのオランダ商館長ファン・ロッセンは、ミール・カマールッディーンとともにハヴァールダールのムッラー・ムハンマド・タキーを訪問し、オランダの商品を運び出す許可を得た。

 しかし税関で業務を担当する「バラモン」は手続きを行わず、9月25日にオランダ側が「バラモン」に訊ねたところ、警察長官(コトワール)の許可をもらっていない、とのことだった。オランダ側はコトワールに確認したが、その返事は、まだハヴァールダールからの許可をもらっていない、というものであった。

 しかし数日待っても許可は届かず、9月28日、ファン・ロッセンは再びミール・カマールッディーンに伴われてムハンマド・タキーを訪れ、抗議した。双方が譲歩しない中で、ミール・カマールッディーンは調停案を提示。ムハンマド・タキーが商品運び出しの許可を出す代わりにオランダは他の商人たちと同様の完全を支払ってはどうか、としたが、これはオランダ側が拒絶した。

 最終的に交渉は物別れに終わった。オランダ側は件の商品をムハンマド・タキー自身と、彼に大金を支払ってそれと引き換えに取引の権利を得た一部の商人たちとに売らざるを得なくなったという。

政治的危機

 1628年(寛永五年)3月1日、ミール・カマールッディーンを拘束してナルサプルとその周辺で彼が持っていた管理権を取り上げるようにとの勅令が届いたことが、オランダ商館長ファン・ロッセンの「日記」にみえる。

 その理由は、ミール・カマールッディーンがスルターンの為に5隻の船を造らせていながら、労働者たちに十分な支払いをせずに1隻につき4000〜5000パゴダずつを横領していたこと、また彼がマンスール・ハーンの名のもとに関税を不当に高く払わせていた、というものだった。処罰はさらに、「ミール・カマールッディーンと取引していて関係があった全ての商人たち、ならびに彼の主要な部下たち」にも及んだという。

 背景には、ゴールコンダ王国内の政争があったとの指摘もある。当時は同国の有力者マンスール・ハーンの力が揺らいでおり、年代記『スルターンたちの庭園』によると、1627年(寛永四年)10月以降、上述のムッラー・ムハンマド・タキーがマンスール・ハーンの仕事をほとんど肩代わりしていて、約1年後にマンスール・ハーンが「病死」した後に、正式に税務長官(サン・ハイル)に任ぜられたという。

 なおファン・ロッセンはミール・カマールッディーンからのゴールコンダ発の書簡に基づく情報として、マンスール・ハーンの死因は、スルターンの命令による毒殺であると「日記」に記している。

蘭英によるマスリパタム封鎖

 ミール・カマールッディーンは、間も無く勢力を回復し、再びマスリパトナムに戻ってきたが、すぐに新たな問題が発生する。

 1629年(寛永六年)前半、税務長官(サン・ハイル)になっていたムッラー・ムハンマド・タキー(およびその兄弟でハヴァールダールの任にあったミール・ファスィーフッディーン・ムハンマド)と、かねてから対立していたオランダとイギリスが、マスリパトナム港の封鎖に踏み切った。両国勢力は、マスリパトナムを拠点とする船を拿捕してその積荷を奪うことで、ムハンマド・タキーらの政策によって被った損失を補おうとした。

 この時、ミール・カマールッディーンの持ち船の1隻が、アチェスマトラ島北岸の港市)からの復路でオランダによって拿捕された。さらにイエメン西部のムハー(モカ)に向かっていた1隻がイギリスによって拿捕されてしまう。この事件は、ミール・カマールッディーンの積荷の一部に被害を与えたが、その後の経済活動にとって決定的な打撃とはならなかったとみられている。

ペルシア湾への交易船派遣

 1632年(寛永九年)、ミール・カマールッディーンは持ち船の「マンスーリー号」を、スルターンの名のもとにペルシア湾へ送り出した。マスリパトナムを拠点とする人物の船としては初めての派遣であったという。

 一方で、この船は出発前から大きな収益は見込めない状況にあった。その少し前に、イギリスが商人たちからペルシア湾への荷の輸送を大量に請け負い、スーラトから船2隻を振り向けていたため、マンスーリー号には当初期待していたほどの荷が積まれなかった。

 それでもペルシア湾に船を派遣する理由について、ミール・カマールッディーンは以下のように述べていたという。

得られるものが少なくとも[船を]出帆させるだろう。というのも、その船を送るのは主に、ムガル朝の領土を通らずに海路で王の大使と何頭かの馬とその他の品物をペルシアから[コロマンデル]海岸にもたらすためだからである。

 馬が交易品として重視されていたことが分かる。16世紀末から紅海方面に「王の船」を派遣していたゴールコンダ王国のスルターンもアラビア馬に投資していた。紅海派遣の「王の船」は、オスマン朝のスルターニー金貨やスペインのレアル銀貨などの貨幣をもたらしており、マンスーリー号にも金銀貨幣の獲得が期待されていたとみられる。

 1633年(寛永十年)3月10日頃、マンスーリー号はペルシア湾の要港バンダレ・アッバースに到着した。この船は「殆ど品物をもたらさなかったが、非常に多くの乗客を乗せていた」と記録にみえる。乗客の中には商人や巡礼者が多く含まれていたと考えられている。なお、後にスルターン・アブドゥッラーの祖母と叔母が巡礼の為にペルシア湾に向かった際にも、ミール・カマールッディーンが所有していた大型船が用いられている。

故郷への帰還

 ミール・カマールッディーンは、その後もマスリパトナムで交易活動を続けたが、1635年(寛永十二年)11月に故郷のペルシアに向けて出発する。

 ゴールコンダ王国を後にした彼は、イギリスの船でダーボルからペルシアへ帰ろうとしたが、嵐にあって再びインドに戻った。その後、1636年(寛永十三年)11月にスーラトにいたとの記録がある。これを最後にミール・カマールッディーンの消息は絶たれ、彼が最終的にペルシアに着いたのかどうかは不明であるとされる。

参考文献

  • 和田郁子 「インド・ゴールコンダ王国の港市マスリパトナムー17世紀前半のオランダ商館の日記を中心に」(歴史学研究会・編『港町の世界史③港町に生きる』 青木書店 2006)
  • 和田郁子 「インド・ゴールコンダ王国における君主と港市・海上交易の関係ースルターン・アブドゥッラー(1626ー72)の治世を中心にー」(『東洋史研究』66 2007)

アジア図(ウィレム・ヤンソン)1635年頃 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※ベンガル湾周辺を切り取り加工しています

*1:ナルサプルは、大型船(当時)でも入港できる港と、後背地の良質な材木に恵まれており、この地方の造船業の中心としてよく知られていた。

*2:少なくとも「日記」が書かれた頃は友好関係にあったが、しだいにその関係は冷めたものになっていたともいわれる。