14世紀初頭から17世紀中頃にけて南インドで栄えたヴィジャヤナガル王国の王都。現在のインド南部カルナータカ州ハンピに都市遺跡が残されている。山地と城壁に囲まれた巨大な要塞都市であり、その繁栄は当時のヨーロッパ人にも記録された。
王都ヴィジャヤナガラの都市プラン
16世紀初頭にヴィジャヤナガラを訪れたイタリア人ルドヴィコ・ディ・ヴァルテマは、その都市について「大変に大きく頑強な城壁で囲まれ、山に接し、周囲の距離は7マイルにのぼる」と述べた。都市の北側はトゥンガバドラー川にも接しており、堅固な要塞都市でもあった。
都市プランは、まず城壁で囲まれた都市部があり、その西南地区に王宮その他の主要施設がラーマ寺院を中心に配置されていた。そこの南北の大通りを通り、城壁を出て北に行くと、ヴィルーパークシャ寺院、ヴィッタラ寺院などの諸寺院やバザールが配置された「聖域」があり、その北をトゥンガバドラー川が流れていた。
ポルトガル人の見た王都
1520年(永正十七年)から1522年(大永二年)頃にかけてヴィジャヤナガル王国に滞在したポルトガル人ドミンゴス・パイスは、王都ヴィジャヤナガラについても、詳細な記録を残した。
都市の大きさについては、あえて記さないとしている。市域が幾つもの山脈の間にのびており、小高い丘に登っても、都市全体を見渡すことが出来ないためと理由を説明している。ただ、「そこから見えた部分は、私にはローマほどの大きさに思え、非常に美しいものに映った」と述べている。
王都には多数の導水管が引かれ、場所によっては貯水池もあった。水は全て囲壁の外にある2つの湖から引いていた。水が豊富な市内では、マンゴーやオレンジ、レモンなど多くの果樹が栽培されていた。
王都の活況
そして王都ヴィジャヤナガラには、数え切れないほど多くの人々が往来していたという。人だけでなく象*1も多数いた。このため、騎馬であれ徒歩であれ、大通りや路地を突き切ることは出来ないとパイスは断言している。
都市内では、職業別に居住区*2が設けられており、それぞれの区画で市が開かれていた。ヴィジャヤナガラでは、たくさんの宝石、なかでもダイヤモンドの取引が盛大に行われていた*3。このため様々な国に生まれた、多様な人々が住んでいたとしている。
パイスはまた「この市は世界で最も食物の豊富なところである」と記している。米、小麦、穀物、もろこし、ある種の大麦、豆、ひよこ豆、その他この国に産する多数の穀物があった。しかも、いずれも多量にあり、非常に安価であった。
多くの街路や市場には、荷を積んだ数え切れないほどの牛が満ちていた。その場合、前に進むことができないので、通り過ぎるのを待つか、他の道を探すかしかない、と王都生活の知恵を伝えている。
パイスは他にも、市場で売られている鶏*4や鶉*5、野うさぎ、野鳥、雉鳩、羊肉、豚肉、レモン*6、オレンジ、茄子などの野菜、バター、オリーブ油、牛乳、柘榴、ぶどう等についても言及している。
ヴィジャヤナガル王国の盛衰
ヴィジャヤナガル王国は、14世紀初頭に初代の王ハルハラによって創始された。その後、北のグルバルガを王都とするバフマニー朝と争う一方で、南方に勢力を拡大していった。
1509年(永正六年)に王位を継いだクリシュナデーヴァラーヤは、外征を繰り返し、ヴィジャヤナガル王国の版図は彼の代で最大となった。またゴアを占拠したポルトガル人とも友好関係を保って、アラビアからの軍馬の補給を確保している。なお、上述のパイスがヴィジャヤナガル王国に滞在したのは、この王の治世にあたる。
しかしクリシュナデーヴァラーヤ王の晩年から、王国は衰退の傾向にあった。北方では、バフマニー朝が分裂して出来たムスリムの五王国*7が台頭していた。
1565年(永禄八年)、摂政ラーマラージャ率いるヴィジャヤナガル王国軍は、クリシュナ―川北岸のラークシャサ・タンカディ(ターリーコータ)の地で五王国の連合軍に大敗。ラーマラージャは敗死し、王都ヴィジャヤナガラは連合軍に蹂躙された。ラーマラージャの弟ティルマラは、王を擁して東南方のペヌコンダに退き、新たな王都とした。
最終的にヴィジャヤナガル王国は、五王国のビジャープル王国とゴールコンダ王国によって1649年(慶安二年)頃に滅ぼされた。この両国もまた、1687年(貞享四年)には北のムガル帝国によって滅ぼされることになる。
参考文献
- モンセラーテ , パイス , ヌーネス『大航海時代叢書 第II期 5 ムガル帝国誌・ヴィジャヤナガル王国誌』 岩波書店 1984
- トメ・ピレス 『東方諸国記』(大航海時代叢書Ⅴ) 岩波書店 1966
- 辛島昇 編 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社 2007
*1:1500年(明応九年)から1516年(永正十三年)までインドに滞在したドゥアルテ・バルボザは、「ナルシンガ(ヴィジャヤナガル)の王は常に900頭以上の象を持っている。それは彼が1頭1500ないし2000クルサードで買い入れたもので、非常に大きく、また美しい」と述べている(『ドゥアルテ・バルボザの書』)。
*2:例えば、職人地区(カンマーラッテル)、織布工地区(カイッコーラッテル)の名称がある。またパイスは、職人地区の通りが終わるところにイスラム教徒があったことを記している。
*3:ドゥアルテ・バルボザは、王都ヴィジャヤナガラについて、ムスリム商人など宝石の取引を行う大金持ちの商人がたくさんいたとしている。王は、自身の立派な宝石コレクションを吹聴しており、宝石があると知ったら、どんな場所でも捜しに行かせるという(『ドゥアルテ・バルボザの書』)。
*4:鶏も数が多く、市では1ヴィンテン(20レアルの銅貨)に相当する「ファヴァン」(ファナムの誤写か)貨幣1枚で鶏が3羽買える。市の外になると、4羽買える、としている。
*5:3種類の鶉がいたらしい。1ヴィンテンにつき6羽ないし8羽買えた。野うさぎや他の野鳥もそうだが、基本的に生きたまま売られていたとしている。