戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

望遠鏡(輸入) ぼうえんきょう

  望遠鏡は17世紀初頭のオランダで発明された。その後まもなくヨーロッパ中に普及し、日本にもイギリス東インド会社によって持ち込まれた。江戸幕府とオランダとの貿易が本格化すると、オランダは対日の高級貿易品として望遠鏡を輸入。日本では軍事や天体観測に用いられた。

望遠鏡の発明

 望遠鏡は17世紀初頭にオランダ・ゼーラント州都ミデルブルフで発明されたとされる。イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイも1610年(慶長十五年)に刊行された書籍『星界の報告』の中で「望遠鏡はオランダ人が発明した」と記している。

 当時、ミデルブルフでは急速にガラス生成技術が高まっていた。背景には1581年(天正九年)にミデルブルフの行政長官が近郊の大都市アントワープからガラス職人を招聘したことや、1585年(天正十三年)にスペイン軍のアントワープ攻略により多くの商工業者がミデルブルフに逃れてきたことがあった。

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 望遠鏡の発明者として最も早く記録にみえるのが、ミデルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルハイであった。1608年(慶長十三年)9月、リッペルハイはゼーラント州評議委員会の推薦状を得たうえで、オランダの首都ハーグにて総督マウリッツ・ファン・ナッサウに謁見し、望遠鏡を献上した。ハーグの全体議会の公文書にも、リッペルハイが共和国新政府に器械の技術を披露し、特許を申請したことが記録されている。

 マウリッツは望遠鏡の実演披露の場に、異母弟フレデリック・ヘンドリックだけでなく休戦交渉をすすめていたスペイン軍司令官アンブロジオ・スピノラも招いた。当時のニュースパンフレットには、以下のように記されている。

それは、3~4マイル先の物が、まるで100歩しか離れていない処から見ているようだった。ハーグの塔に登ると、デルフトの時計(時計台の文字盤)やライデンの教会の窓が、その眼鏡ではっきり見えた。陸路を使えば、それぞれ1時間半、3時間半を要するほど離れている。
(中略)
話題の眼鏡は、包囲作戦や戦況の偵察において真価を発揮する。すなわち、1マイル以上も離れた処からでも、あらゆる光景をあたまも手に取るように探ることができる。そのうえ、普段肉眼では見えない小さな星さえも、この器械を使えば捕らえることができる。

 実演披露の話は、各国の外交官の耳に入り、ヨーロッパ各地に急速に広まっていった。スペイン軍司令官アンブロジオ・スピノラは、ハーグからブリュッセルに帰還すると、ただちに領主のオーストリア大公アルブレヒト7世に望遠鏡実演の詳細を報告。さらに職人を捜して望遠鏡の製作を命じ、翌1609年(慶長十四年)2月にはリッペルハイと瓜ふたつの望遠鏡が完成した。

 また1609年(慶長十四年)7月にはイタリアのパドヴァヴェネチア、そして8月には南部のナポリにまで望遠鏡は伝わった。ナポリの科学者ジャンバティスタ・デラ・ポルタは、さっそく見分を行い、その構造を簡単にスケッチした。なお、デラ・ポルタは1589年(天正十七年)に著した『自然魔術』の中で、すでに望遠鏡の原理を発表していたので、現物を見た途端その構造を見破ったという。

日本の望遠鏡輸入

 オランダ総督マウリッツへの献上から5年後、望遠鏡は日本にも伝わった。慶長十八年(1613)八月、イギリス東インド会社の艦隊司令官ジョン・セーリスが徳川家康に望遠鏡を献じている。『駿府記』の八月三日付記事には、以下のように記されている。

イゲレス今日候殿中、献猩々皮十間、弩一挺、象眼入鉄砲二挺、長サ一間程之靉靆*1六里見之云々、

 オランダからも日本に望遠鏡が運ばれた。1632年(寛永九年)11月15日の商館日誌に、前年に平戸に届いた高級品の一覧表があり、その中には「金筒または望遠鏡」が含まれている。1634年(寛永十一年)春、この望遠鏡は大砲4台と要塞に関する書籍とともに献じられており、望遠鏡の軍事的有用性が示唆される。

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 幕府とオランダとの間に立つ要人も望遠鏡に関心を示した。1636年(寛永十三年)、長崎奉行・馬場三郎左衛門はオランダ東インド会社から望遠鏡をもらっており、1637年(寛永十四年)2月には平戸藩主・松浦壱岐守重信も「質の良い望遠鏡」を注文している。また1638年(寛永十五年)3月には、老中・松平伊豆守信綱と大垣藩主・戸田采女正氏鉄が、オランダ商館長の所持する非常に鮮明で質の良い望遠鏡を暫く借りたいとの希望を伝えている。

 1641年(寛永十八年)、平戸のオランダ商館が幕府の命令により長崎出島に移される。以降の約20年間、大目付井上筑後守政重が幕府とオランダ東インド会社との仲介をつとめた。

 1647年(正保四年)夏、井上政重が求めた望遠鏡が出島商館に届いた。船の送り状には「肉眼で見えない木星の四つの衛星やその他の小さな星を発見できるきれいで長い望遠鏡」と記されており、政重の注文に応えたものであったことがうかがえる。また木星の衛星に関する情報が日本に伝わったことを示す初めての史料ともされる。

 なおオランダ東インド会社の送り状からは望遠鏡の日本への輸入量も分かる。1640年(寛永十七年)は4本、1642年(寛永十八年)と1644年(寛永二十一年)は2本だが、1645年(正保二年)には20本に増加。1646年(正保三年)と1647年(正保四年)は10本、1648年(慶安元年)は7本、そして1654年(承応三年)は41本、1660年(万治三年)は28本など年度によって急激に増えることがあった。

 1640年代以降、望遠鏡は高級貿易品となっており、井上政重以外にも幕府の重要人物が注文を出している。オランダ商館の記録によれば、1640年(寛永十七年)に老中の阿部豊後守忠秋、牧野内匠頭信成、1641年(寛永十八年)に長崎代官の末次平蔵、1656年(明暦二年)に老中稲葉美濃守正則らの名がみえる。

国産の望遠鏡

 1729年(享保十四年)7月31日、出島のオランダ商館日誌に長崎在住の「望遠鏡職人」(verrekijker maker)がみえる。彼はオランダ東インド会社が献上品として運んでくる望遠鏡を点検し、レンズを「きれいにする」仕事をしていた。この人物は、18世紀前半に長崎で活躍した森仁左衛門正勝であったと推定されている。

 ただ1731年(享保十六年)には正勝が担当した望遠鏡が、「きれいにする」以前より性能が落ちることがあったらしい。当時の商館長は、分解後の再組立てはもっと丁寧に行わなければならない、との不満を日誌のなかで記述している。

 18世紀中頃、日本の職人が製作した望遠鏡についてオランダ人が記録を残している。1752年(宝暦二年)5月、オランダ商館長は奉行の特別許可を得てボートに乗り、長崎湾一帯を観光。その際に高鉾山付近の遠見番にある日本製の望遠鏡を体験し、日誌に感想を記した。

(前略)その近くの遠見番の村へ行き、散歩をしたり、山に登ったりした。しかし、私が一番興味があったのは、彼らの大型の日本製の望遠鏡を一度調べることだった。
(それについて彼らは海上で35~40マイル離れた船を見ることが出来ると主張している。)
しかし、この望遠鏡は大変規模の大きいものだったが、我が社の船が備えている普通の望遠鏡より良いものではないことがわかった。そのガラスは黄色く、我々のほど明るくない。しかし私は彼らを元気づけるため、彼らがいる間、その望遠鏡を大いにほめた。なぜならば、彼らはいつもそのことを大変気にしているからである。

 長崎湾の遠見番が利用した国産望遠鏡に関するオランダ商館長の評価は厳しいものだった。

参考文献

  • 秋山晋一 「オランダでの望遠鏡発明の全容 第1章 望遠鏡誕生への道のりと発明者リッペルハイの技術」(『天文教育』31 2019)
  • 秋山晋一 「オランダでの望遠鏡発明の全容 第2章 ハーグの宮殿での望遠鏡の実演披露」(『天文教育』31 2019)
  • ヴォルフガング・ミヒェル 「江戸初期の光学製品輸入について」」(『洋学』第12号 2003)。

占星術 (天文学の擬人化が望遠鏡を覗いている) 1670年 - 1724年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

阿蘭陀人男女之図
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ガリレオ・ガリレイの肖像 1624年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

 

*1:「靉靆」は眼鏡を意味する。