戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

アントワープ Antwerpen

 北海へと注ぐスヘルデ川下流右岸に位置する港町。15・16世紀には、ヨーロッパ経済の中心地となって栄えた。

北部ブラバンドの商業圏

 アントワープ市場では14世紀末に春の聖霊降臨祭と秋の聖バフォンの年2回の大市が成立し、北部ブラバンド(ベルギー北部・中部・オランダ南部)の都市と連関して一つの商業圏を形成していた。

イギリス毛織物の一大市場

 発展の契機は15世紀後半、イギリスの毛織物輸出が拡大する中で、その一大輸出先となったことによる。アントワープには毛織物を購入するケルン商人が集まり、同時にイタリア経由のアジアや地中海の産物がケルンを通って同市にもたらされるようになった。

 またハプスブルク家の大公マクシミリアンにより、1488年(長享二年)にブリュージュ在住外国商人のアントワープへの移住命令が出されている。ハプスブルク家支持の立場も、同市に有利にはたらいていた。

アジア交易の始まり

 1501年(文亀元年)、東インド産の香料を積載したポルトガル船がアントワープに来航する。まもなくポルトガルは同市に商館を設け、市場で香料が取引されるようになる。

 これにより、ドイツ商人もヴェネツィアで取引していた南ドイツの銀・銅の販路をアントワープに転じ、アジア交易に不可欠な銀・銅がアントワープ市場にもたらされることになった。

繁栄を極める

 以上の状況による交易の活発化は、より多くの交易品も市場に流入させるようになる。16世紀半ば、ロンドン市場の輸入品はアントワープ経由が40%を占めるようになっているが、そこには香料や染料、絹織物など多彩な商品がみえる。

 1543~45年にハプスブルク帝国が全ネーデルラント都市に課した輸出入関税総額のうち、実に7割がアントワープからのものであった。このことからも、その繁栄ぶりがうかがえる。

 同じ頃、アントワープには史上初の株式取引所が設けられている。これにより多くの商社、銀行とともにヨーロッパの商業・金融の中心ともなった。

ポルトガルとイギリスとの関係変化

 この繁栄の裏側で、しかし国際情勢の変化がアントワープに影をおとすようになる。1549年(天文十八年)、香辛料をもたらしていたポルトガルが商館を引き上げる。イベリア半島に新大陸から銀が流入するようになった結果、ポルトガルは必ずしも南ドイツ産の銀を必要としなくなっていた。

 またアントワープの繁栄を支えたイギリス産毛織物も、イギリスと帝国の関係悪化によって1560年代には供給をたたれてしまう。

オランダ独立戦争の戦禍

 これにスペイン軍と反乱軍による「オランダ独立戦争」が追い討ちをかける。戦禍の中で多くの人々がアントワープを去った。最盛期には10万人を数えた人口は、1589年(天正十七年)には4万2千人の最低ラインを記録することになった。

 アントワープや南ネーデルラントを離れた商人は、後に新興国オランダの中心都市となるアムステルダムへと移住した。アントワープのネットワークと資本を吸収したアムステルダムは、次世紀において繁栄を極めることになる。

参考文献

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ベルギー・アントワープの街並み from写真AC