戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

トラディスカント壺 tradescant jar

 中国明朝の華南地方で製作された「華南三彩陶」の一器種。名称は1627年(寛永四年)に没したイギリスの収集家ジョン・トラディスカントの名前に由来する。東南アジア地域中心に伝世品、出土例があるが、日本でも博多や豊後府内、肥後天草、石見益田などで確認されている。豊後大友氏や石見益田氏は茶壷として使用したらしい。

華南三彩陶とトラディスカント壺

 トラディスカント壺は、中国明朝の華南地方で製作された「華南三彩陶」の一器種。華南三彩陶には他に、轆轤成形で刻花文などの線刻文を施した壺、瓶、水注、盤などがあり、また鳥や魚などの形を型作りの水注、水滴、香合がある。香合の生産窯が福建省南部で確認されており、その他の器種についてもこの周辺で焼かれている可能性が高いとされる。

 トラディスカント壺は、華南三彩陶の中でも型押しされた文様を表面に貼り付ける「貼花」を特徴とする。頸部には縦方向の耳が付き、釉は緑色を基調として文様部分に黄色・褐色(紫・茶)・緑色の三色の釉がかけ分けられる。

 また確認されている資料は、肩部に最大径があるものと胴部のほぼ中央に最大径があるものの大きく2つの形態に分類できる。

 文様からもいくつかに分類可能であるが、文様が大きく4側面に展開して宝相華を中心にしたものと、六弁から成る花弁文を中心にしたものの2種類がそれぞれ表裏で同じ文様となる、というように基本的な文様構成はほとんど同じとなっている。このことから、一定の規格を基に作られたものと推定されている。

 この種の壺をヨーロッパに持ち帰ったイギリスの収集家ジョン・トラディスカントは、1627年(寛永四年)に没した。このことから、トラディスカント壺は1627年(寛永四年)以前、16世紀後半から17世紀初頭までには生産されていたことが分かる。

戦国期の日本への移入

 戦国期の豊後大友氏の本拠・豊後府内大分県大分市)では、中世大友府内町跡からトラディスカント壺の陶器片が出土。大分市竹中の勝光寺にも、トラディスカント壺が伝世品として残る。寺に伝わる延宝元年(1673)の『南陽山勝光禅寺記』には、大友氏ゆかりの品々が同寺の秘蔵品として記されており、上記のトラディスカント壺については「茶壷」と記載されている。

 これに関連し、旧彦根藩井伊家に伝来するトラディスカント壺(現在は彦根城博物館所蔵)は、茶壺としての伝世が知られる。勝光寺のトラディスカント壺も、もとは大友氏が茶壺として用いていたものかもしれない。

 このほか、九州屈指の国際貿易港として栄えた筑前博多肥前大村氏が慶長四年(1699)に築いた玖島城跡(長崎県大村市)、イエズス会コレジヨ(神学校)があった肥後天草の河内浦(熊本県天草市河浦町)など九州でも海外貿易と関わる場所から出土している。

 中国地方では、島根県益田市萬福寺に残る「華南三彩貼花文五耳壺」がトラディスカント壺とされる。この壺は「益田家拝領の茶壺」と伝わっており、石見の有力国人である益田氏も、大友氏と同じくトラディスカント壺を茶壷として使用していた可能性がある。また益田氏は海洋領主的性格が指摘されており、同氏の海外貿易との関わりの一端を示すものともされる。

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参考文献

トラディスカント壺 17世紀初頭
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ジョン・トラデスカント老の肖像 1656年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio