戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

テルナテ Ternate

 インドネシアのマルク諸島(モルッカ諸島)の一つテルナテ島東岸の港町。テルナテ島はマルク諸島最大のハルマヘラ島の西海岸沖合10キロメートルに位置する。テルナテ王国の王都であり、丁子(クローブ)の積出港として栄えた。

ヨーロッパ人来航以前

 マルク諸島北部は、古くから丁子(クローブ)の産地として知られた。丁子はおもに中国で薬用や焚香料として消費された。14世紀頃には、直接中国へ丁子がもたらされるようになった。一方でジャワ島の強国・マジャパヒト王国に従属していたともされる。

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 15世紀後半、南方から入ってきたイスラームを受容した。ポルトガル人のジョアン・デ・バロスは、マルク諸島で初めてイスラームに改宗したのは、当時のテルナテ王*1の父カシル・ティドレ・ヴォンゲで、ポルトガル人の進出する80年前のことであったと述べている。

ポルトガル人の来航

 1512年(永正九年)、テルナテ王国のスルターン・バヤン・シルラーは、セラム島近くで難破したポルトガル人フランシスコ・セランをテルナテに迎え入れた。これをきっかけにテルナテ王国はポルトガルと同盟を締結。以後、ヨーロッパ向けの丁子貿易で発展した。

 ポルトガルやスペイン、中国商人らはブルネイ経由で北からやってきたため、他のマルク諸島に比べてテルナテの重要性は高まった。

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『東方諸国記』にみるテルナテ

 ポルトガルトメ・ピレスは、16世紀初頭のテルナテの様子を『東方諸国記』に記している。港には2、3隻のナウ船(キャラック船)が停泊することができ、港町が形成されていた。国王は国内に外国人の商人をおき、100隻ものパラオ(小船)を所有していた。人口は約2000人*2であり、ムスリムは約200人に達したという。

 テルナテ王は南方のモティ島の半分*3を支配しており、この島から多量の食糧がテルナテにもたらされたとする。ただテルナテは住みやすい島だったが、当時はマキエン島など他の島の方が、良港に恵まれていたため、取引も盛んだったらしい。

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 テルナテの商品は、第一に丁子だった。島では毎年1500バール以上の丁子が産出された。また島の中央の山からは多量の硫黄が産出したとしている。その他、バンガイ諸島から大量の鉄、斧、大包丁、剣、小刀が、他の島々からは黄金が運ばれてきた。象牙も少しあった。モロタイ諸島からは、たくさんの鸚鵡が、セラン島からは白い鸚鵡が持ち込まれた。

 一方でマルク諸島では、インドのカンバヤの衣服、ベンガラから持ってくる白い雌雄の牛の尻尾が人気だった。またカンバヤ産やボヌア・ケリンなどの織物も高価であったという。同時代のドゥアルテ・バルボザは、他にも銅、水銀、陶器、ジャワの金属製のドラム、銅銭をあげている。

ヨーロッパ勢力とマルク諸島

 テルナテ王国はポルトガルの支援を受けることで、支配地域を拡大させた。1551年(天文二十年)までには、一時強勢となったハルマヘラ島のジャイロロを滅ぼした。しかし、1570年(元亀元年)にテルナテのスルターンがポルトガル人に殺害されると決定的に悪化した。

 1575年(天正三年)、スルターン・バブッラはポルトガル人をテルナテから追放するにいたる。その後ポルトガル人は、テルナテ島から約1キロメートル離れたティドレ島に拠点を移し、要塞を築く。ティドレの王は、テルナテ王とライバル関係にあった。ティドレは後にスペインと結び、テルナテに対抗するようになる。

 17世紀になると、マルク諸島にオランダ東インド会社が進出してくる。テルナテ王国はオランダと協定を結び、テルナテにはオランダの砦が建設された。以降、テルナテはオランダに与してマルク諸島で優位に立った。しかし丁子貿易に関する特権をオランダに譲渡するなど、しだいにその関係は従属的なものに変化していった。

日本とマルク諸島

 1615年(元和元年)11月、アムステルダム東インド会社本社からジャワの政庁に送った指令の中に、「マルク諸島に来航する諸国船の貿易を阻止せよ」というものがあった。列記された国名は、中国、マレー、クリング、イギリス、フランス等であるが、中に日本も挙げられている。つまり、マルク諸島に渡航する日本船があると認識されていた。

 実際、元和二年(1616)九月、長崎の町年寄・高木作右衛門が「摩陸(まろく)」行きの渡航朱印状を得ている(『異国渡海御朱印状帳』)。「摩陸」はマルク諸島を指すと考えられている*4。ただ同朱印状には、「是へは始めて遣わされる也」ともあり、この年初めて幕府から正式に渡航許可がおりたことが分かる。また摩陸への渡航朱印状は、この一回限りで終わっている。

 また1623年(元和九年)8月29日現在のマルク諸島在勤会社員名簿によれば、テルナテ島にはオランダ東インド会社の使用人として5名の日本人が確認できる*5。彼らは傭兵としてテルナテ島での対スペイン戦などの軍務についたとみられる。

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参考文献

  • 早瀬晋三「海域東南アジア東部ー「海の領主」、交易商人、海洋民」(『岩波講座 東南アジア史 第4巻 東南アジア近世国家群の展開』 2001)
  • トメ・ピレス 『東方諸国記』(大航海時代叢書Ⅴ) 岩波書店 1966
  • 岩生成一「東インド諸島各地分遣日本人の活動」(『続南洋日本町の研究』 岩波書店 1987)

*1:バロスはテルナテ王はカシル・ボレイフェという名前で、高齢で、たいへん思慮深いとしている。実際の名はスルターン・バヤン・シルラーであったことが知られる。彼の死後に王位についたスルターン・アブ・ハヤトがポルトガルジョアン3世に宛てた書簡にその名がみえる。

*2:1534年(天文三年)2月20日付のトリスタン・デ・アタイデの書簡によれば、テルナテは人口4000人で、兵士数1000人とされている。

*3:もう半分はティドレ王が支配していた。

*4:音が似ているマレー半島のマラッカは「摩利伽」と区別されている。

*5:南のマキアン島には計9人の日本人が住んでいた。