戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

薩摩焼 さつまやき

 薩摩国で焼かれた陶磁器。朝鮮に出兵(慶長の役)した島津軍によって捕らえられた朝鮮陶工によって製作された。江戸期は「国焼」あるいは「国許焼」「薩州焼」とも記されている。

朝鮮陶工の渡来

 朝鮮陶工が薩摩に渡来したのは、慶長三年(1598)の冬であったといわれる。朝鮮半島から撤退する島津軍によって連行され、串木野島平に男女43名、東市来神之川に男女10名ほど、鹿児島に男女20名ほどが着船した。その後、竪野系、苗代川系、龍門司系という3つの窯業産地を形成していった。

 串木野島平に着いた陶工たちは、すぐに焼物づくりを始めたとみられる。現在のいちき串木野市下名で確認されている串木野窯跡がそれだとされる。窯体は14.5メートル以上を測る単室登窯で、この窯構造は15世紀後半から16世紀前半の韓国慶尚南道清道郡蒪池里窯跡などの窯構造と共通する。

 しかし地元住民が焼物小屋に乱入するなど、トラブルが発生。ついに地元住民が徒党を組んで狼藉を行おうとするに至った(『先年朝鮮より被召渡留帳』)。このため慶長八年(1603)冬、苗代川へ移った。

 陶工の中から朴平意(パクピョンイ)が庄屋として選ばれた。朴平意は「焼物惣差引人」という立場でもあった。焼物を「国益」にしようとする島津氏の意向があったという(『苗代川由来記』)。

島津義弘直属の作陶

 島津義弘の居館のあった大隅国帖佐(現在の鹿児島県姶良市)には、朝鮮人陶工・金海が貢献して宇都窯が開かれた。義弘はたびたび宇都窯を訪れ、茶入や茶碗についてあれこれと指示し、御判焼として仕上げるよう命じたという(『星山家系譜』)。その後、義弘が加治木(姶良市加治木町)に移ると、金海らも共に移り、御里窯を開いた*1

 宇都窯や御里窯で焼かれたと思われる物は、素焼きの陶片が多く、少量の製品は「古帖佐」と呼ばれてきた褐色ないし黒飴釉のかかったものと、胎土、釉薬ともに白色の火計手に大別される。種類は茶入、茶碗、甕と推測される物のみで、かなり限定されている。初めから茶陶を目的としている様子がうかがえるという。

 元和五年(1619)に義弘が没すると、跡を継いだ島津忠恒(家久)により、窯は竪野に移された。

将軍に献上された薩摩焼

 慶長七年(1602)三月、島津義弘は、徳川家康側近の山口直友に肩衝茶入を2つ送っている。これは直友から型見本を示されたうえで、製作を依頼されたものだった(『鹿児島県史料 旧記雑録後編』)。

 この茶入は大好評だった。慶長九年(1604)、直友は義弘に対し、茶入について「焼しほ一段能御座候由」と古田織部が評したので、皆が欲しがっていると伝えている。また、数寄者の将軍・徳川秀忠の御目に懸けぬうちは、今後誰から所望されても断るようにと指示している*2

 慶長十年(1605)二月、山口直友は義弘に宛て、秀忠に披露したいので肩衝茶入を進上するよう書き送っている*3

島津義弘薩摩焼外交

 島津義弘のもとには、薩摩焼の茶入の注文が京都から再々あった。慶長十一年(1606)四月、義弘は京都の島津忠恒(義弘の子)宛の手紙で、「肩衝茶入の注文は承知してるし、たびたび焼かせているが、出来が良くないので、そちらに送ることが出来ない」と書き送っている。

 しばらくして、茶入が出来上がったらしい。五月、6つ送るので「福嶋殿」(福島正則)に遣わし、残りは相応に使ってほしい、と忠恒に伝えている。

 薩摩焼を通じた義弘と古田織部の交流も続いていた。慶長十七年(1612)十一月、織部は義弘宛の手紙の中で、義弘から送られてきた2つの薩摩焼茶入について、「薬能も無御座候」(釉が良くない)、「薬ハくろめなる薬之多御座候か能御座候」(黒い釉薬を多く使うのが良い)、「所々白キ薬之入候も能御座候」(随所に白い釉が入るのが良い)、「なりハ被成御作せ候が能御座候」(背の高さは高くした方がよい)、「尻ノすばり候ハぬ様」(底部がすぼまないほうがよい)と、形や釉薬に関して極めて詳細に指導している。

 また織部は、上田宗箇の薩摩逗留についての謝辞も述べている。宗箇は織部の名代で薩摩に赴き、作陶を指導したらしい。焼かせた茶入を京都に持ち帰ったが、織部からは辛目の評価を受けている。

参考文献

  • 久留島浩「近世の苗代川」(久留島浩・須田努・趙景達 編『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』 岩波書店 2014)
  • 渡辺芳郎「考古学資料から見た近世苗代川の窯業」(久留島浩・須田努・趙景達 編『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』 岩波書店 2014)
  • 深港恭子「窯業産地としての苗代川の形成と展開―薩摩焼生産の歴史」(久留島浩・須田努・趙景達 編『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』 岩波書店 2014)
  • 田村省三「島津義弘茶の湯」(矢部誠一郎 編『桃山・江戸時代初期の大大名の茶の湯』 宮帯出版社 2017)
  • 西田周平「初期薩摩焼における大陸陶磁器の影響について」(『東アジア文化交渉研究』13 2020)

*1:発掘調査の結果、御里窯跡から出土した窯壁は、よく焼き締まっていた。自然の吹き出し釉もみられることから、御里窯における生産は長期間に及んだと推定されている。一方で、宇都窯跡の窯壁が焼締まっておらず、焼成によって生じる自然の吹き出し釉もみられず、表面が赤黒く焦げている程度であった。このことから、生産はごく短期間であったと考えられる。

*2:慶長十年(1605)正月、義弘は在京中の家臣・椛山権左衛門に対し、「要請のあった肩衝茶入を送ってやりたいが、将軍に披露するまでは、誰にも渡してはいけないと、山口直友に言われているんだ」と知らせている。

*3:先年の2つの肩衝茶入は、一つは古田織部にとられ、もう一つも所望され、直友の手元には無くなったらしい。なので自分にも送ってほしいと懇望している。