戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

慈光茶 じこうちゃ

  武蔵国の都幾山慈光寺(埼玉県ときがわ町)で生産された銘茶。当時、武蔵国を代表する銘茶として現地では知られたが、京都では「河越茶」として認識されていた。現在の埼玉県・東京都で生産される「狭山茶」の起源の一つとされる。

武蔵ノ慈光茶

 慈光茶の名は、永正四年(1507)頃成立の『旅宿問答』*1にみえる。『旅宿問答』の中で、茶について問答を交わす場面があり、中国や日本の銘茶の一つとして「武蔵ノ慈光茶」が登場する。

 『旅宿問答』で語られる茶に関する内容は、『新撰遊覚往来』を引用している。『新撰遊覚往来』は、14世紀頃の京都近辺で成立したとされ、僧侶や貴族、武士の子弟を対象とした初等一般教養の教科書であった。当時、茶の産地や銘柄を飲み当てる闘茶が流行しており、この往来物で学ぶ者にとって、茶は必要不可欠な教養だった。

 『旅宿問答』に登場する茶産地と茶銘は、多少の異同はあるものの、基本的には『新撰遊覚往来』をほぼそのまま引用している。しかし、武蔵の茶については、『新撰遊覚往来』で「河越」となっているところが、『旅宿問答』では「慈光茶」になっている。

武蔵国で銘茶と言えば

  『旅宿問答』の成立基盤は、関東の天台談義所(天台教学の学問所)周辺にあったといわれる。これは、登場人物の一人が武蔵国仙波で学問をしていたことを明かす場面があることに由来する。

 この武蔵国仙波には、中世において関東天台宗の中心的な談義所だった星野山無量寿寺があり、同寺は「河越茶」生産の拠点寺院ともされている。つまり、「河越茶」生産の中心地において、武蔵国の銘茶といえば、「慈光茶」であるという認識が、 『旅宿問答』が書かれた当時にあったことを示している。

茶の集散地・河越

 慈光寺から20キロメートル余りの河越は、入間川東山道武蔵路が交わる水陸交通の要衝だった。このため、河越は周辺地域で生産される茶の集散地となり、ここから流通する茶は、その地名を冠して「河越茶」と呼ばれたと考えられる。

 『新撰遊覚往来』は、流通先の京都近辺で成立した往来物である。実際は慈光茶であっても、河越から来た茶、つまり「河越茶」とされたのだろう。往来物に載る地方茶には、「駿河の(清見)関」(静岡市清水区)や「伊勢の河居」(亀山市川合町か)など、交通の要衝で呼ばれる例が他にも見られる。

慈光寺の土壌

 都幾山慈光寺は、奈良期の創建と伝わる関東屈指の古刹で、外秩父山地にある都幾山(標高463メートル)の南向き斜面一帯に広がる山岳寺院である。鎌倉期に隆盛を極め、「一山七十五坊」といわれる多くの僧坊が山内に立ち並んだとされる*2

 現在、慈光寺の山内では参道沿いや僧坊の平場を取り囲む斜面に、野生化した茶の木が至る所に繁茂しているという。都幾山は、秩父帯と呼ばれる付加体起源の堆積岩である泥岩やチャート・石灰岩などの岩石からなる。これらの岩石が風化した土壌が茶の生育に適していたとされる*3

 寛元三年(1245)、栄朝が願主となって慈光寺に銅鐘*4が寄進された。栄朝は、栄西の弟子にあたる。栄西は、宋から茶種を持ち帰ったとされ、後に『喫茶養生記』を著している。

 栄朝の弟子・円爾円爾の弟子・無伝聖禅は、駿河国の茶の生産に関わったといわれる。これら栄西一門により、中国杭州や九州、畿内から、慈光寺に茶が導入された可能性が指摘されている。

参考文献

  • 小田部家秀「中世武蔵国の慈光茶―銘柄の形成とその風味」(永井晋 編『中世日本の茶と文化 生産・流通・消費をとおして』 勉誠出版 2020)

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狭山茶の茶畑 from写真AC

*1:登場人物が旅先で様々な話題について問答を繰り広げる問答体のテキスト。

*2:山内には斜面を造成して造った僧坊跡などとされる平場が、127箇所余り確認されている。

*3:中国唐の時代の陸羽は、著書『茶経』の中で「上等の茶は爛石に生え、中等の茶は礫壌に生え、下等の茶は黄土に生える」と記している。「爛石」とは、石灰岩や砂岩などが風化して崩れたものとされ、堆積岩からなる山地の土壌である。

*4:現在「寛元の銅鐘」として国の重要文化財に指定されている。