戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

那智天満 なち てんま

 紀伊国那智川河口部の港町。周辺の集落群とともに熊野那智山門前町、外港として栄えた。多くの御師などが屋敷を構え、商人(金融業者を含む)や職人の存在も確認できる。

那智川河口部の集落群

 天仁二年(1109)、那智山参詣に向かう藤原宗忠は、浜宮王子を過ぎ、鳥居政所*1を通り、小川を数度渡ったあと、一野(市野々)王子に着き、そこから数十町行き、那智発心鳥居に到着。坂を登ること十町で仁王門(大門)に至っている(『中右記』)。

 中世、浜宮(浜ノ宮)など那智川河口から那智山の大門までの間には、 田畠などの耕地を挟み込みつつ、集落が展開していた。そういった屋敷、土地等を那智御師等が散財的に保有していたと考えられている。那智山門前、那智川河口部は、まさに熊野那智山、および御師と密接な関係にある地域だったとされる。

 なお天正六年(1578)の那智山門前にほぼ相当する範囲の在家を示した史料に「先達在家注進状」(「潮崎稜威主文書」)がある。同史料には、那智川河口部の集落として、「天満」、「ねし」、「中村」(川関中村)、「濱」(浜ノ宮)、「いせき」(井関)、「かつら」(勝浦)などがみえる。

天満の様相

 天満は那智湾の中央部、那智川の左岸に位置する。『紀伊風土記』(天保十年成立)には「平田多し、村居は一筋の町をなし、商戸もありて田家の形にあらす」とあり、江戸期には街路に商家が集まる町場となっていた。

 また元禄二年(1689)の『紀南郷導記』には「此浦ハ当国第一ニ勝レタル善キ湊ナリ、室ノ湊ト号スルハ此所也ト云々」とある。中世においても、天満は那智川河口の湊であったと考えられる*2

 中世成立の絵図「熊野那智参詣曼荼羅」には、天満にあった天満社*3とともに、その前の海上に米俵を積み上げた船が描かれている。

天満の住民

 天満には番匠がいたらしい。文明年間に「天満番匠屋」「番匠屋三郎」などが確認できる(「米良文書」)。中世では「買戸屋」、近世初頭では「山田屋」などの屋号を名乗る人物もおり、町場的な様相を呈していたとみられている。

 慶長四年(1599)の田楽再興日記写(「米良文書」)には、「天満かし与左衛門」がみえる。「かし」を河岸とすれば、河岸の荷物の積み卸し場、ないしは魚市場などが存在した可能性も考えられるという。

 また御師の天満兵衛尉、集落内の有力者とみられる天満弾正重豊などもいた。ほかにも、先述の天正六年(1578)「先達在家注進状」には、天満に「実仙坊」(道閑)が居住していた事が記されている。

 実仙坊道閑は、永禄・元亀年間に熊野那智山の有力社家であった実報院の名代をつとめた人物。後述のように駿河国安東荘の年貢収納にも関わっていた。

天満周辺の湊・浦

 天満の北、那智湾の北部には浜ノ宮があった。補陀落山寺が存在することでも知られ、浜ノ宮から補陀落渡海船が出港した。

 同地は中世史料で「湊」であることが確認できる。応永十四年(1407)三月二十二日付の旦那売券の本文中にみえる「浜宮妙円子息弥三郎」が、差出・署名では「みなと妙円子息弥三郎安清」とある(「潮崎稜威主文書」)。このことから浜ノ宮=湊であったことが分かる。熊野那智大社文書に登場する「湊」も、概ねこの浜ノ宮の「湊」とみなせるという。

 浜ノ宮の有力者として、泰地氏、佐藤氏、生馬氏、築地氏、西氏、榎本氏、橋爪坊、良覚坊など史料に見える。泰地氏は、太地浦(太地町)を本拠としつつ、本宮、新宮那智それぞれで一族が御師として活動。西氏は熊野川流域、榎本氏は新宮北部でも活動・居住している。

 また文明四年(1472)には、「川関之城坊主」(廊之坊)と長覚坊による伊予国の旦那をめぐる相論について、佐藤山城守、生馬和泉守、橋爪良済が裁定を下している(「潮崎稜威主文書」)。

 上記の橋爪良済は「浜宮橋爪良済」として別の史料にみえる(「米良文書」)。勝山城の出城の一つが「橋爪坊屋敷」と伝えられている。また西氏も那智御師で、良覚坊や光音院、常大坊、光明坊は同氏の関わる坊院であったという。ほかに、僧道覚の処分状にみえる「河頬本屋敷」は、浜ノ宮の小字の川面にあった御師屋敷と考えられている。

 一方で那智湾南部には勝浦があった。慶長期の江戸城普請において、石船100艘が勝浦港から江戸へと出船しており(「清光公済美録」巻6)、江戸期には栄えた港であった。なお先述の天正六年(1578)「先達在家注進状」では、「かつら」(勝浦)に11軒の在家があったことが記されている。

川関と金融業者

 浜ノ宮の北には川関の集落があった。永享二年(1430)の了本から地蔵女への譲状には「川関の屋敷 しやうゑん坊やしき一円」とあり、了本・地蔵女が所有する屋敷地が川関にはあった。また同じ史料では船も譲られており、彼らが船を所有していたことも分かる。

 また川関には「蔵屋」「廊屋」「新屋」などの屋号をもつ人々がいた。文亀三年(1503)十二月六日付の借銭状によると、「替河関蔵屋弥二郎高清」が「廊屋」を取次として実報院に15貫文の借銭をしている(「米良文書」)。「替」は為替であり、「蔵屋」とともに金融業を想起させる。川関には、このような金融を生業とする者がいたことがうかがえる。

 なお那智では参詣者の旅費運搬の不便を補うため、割符が利用されていた。享徳ニ年(1453)八月、備後尾道の千光寺僧・空真と土屋弾正政宗は、廊之坊から10貫文を借銭。熊野からの帰途、和泉堺で「なち割符」を振り出し、堺でこれから熊野へと向かう参詣の先達に言づてするよう依頼している(「潮崎稜威主文書」)。

 那智と堺、尾道とで為替取引が行われており、堺を核とした経済関係があったことがうかがえる。那智では上記の「替」蔵屋弥二郎高清のような金融業者が、為替取引を担っていたと思われる。

那智と東海地方

 熊野三山紀伊半島の東側に位置していることもあり、伊勢・東海地方との関わりは特に深かった。中世後期、那智山領荘園としては、伊勢国八対野荘(三重県白山町)、武蔵国豊島郷(東京都北区)、伊豆国江間荘(静岡県伊豆長岡町)、駿河国安東荘(静岡市)、駿河国長田荘(静岡市)、駿河本田荘(比定地不明)、遠江国入野郷(静岡県浜松市)などが確認できる。那智にはこれらの荘園から年貢が輸送されていた。

 駿河国安東荘の元亀三〜四年(1572〜73)における年貢収納には(「米良文書」)、天満に居住する御師・実仙坊道閑が関わっていた。

 この時の年貢輸送に実際に携わった宝仙坊賢心(実仙坊道閑の代官とみられる)が諸経費の精算を記した文書によると、駿河、甲斐との年貢輸送において「切紙」(為替)が使われていた。文書には「かハし」「駿河之切紙」「甲州之切紙」「甲州かハし」としてみえる。

 永禄八年(1565)の「駿河国旦那銭注文」(「米良文書」)にも「駿河之切紙」の記載がある。この時の代官は実仙坊道閑当人で、3貫133文(木綿代一束に替える)を納めている。安東荘からは金を支払手段とする貢納もあり、田舎目と京目の違いが那智山で認識されていた。

 また安東荘からの年貢輸送船は、伊勢国の宇治山田を経由して那智へ到っていたらしい。上記の諸経費精算の文書には、「山田」で「つかいもの」(贈り物)の買い物をし、また路銭の借銭などをしたことが記されている。別の史料では山田で1貫500文の切紙が譲渡されており(「米良文書」)、那智と山田とで為替取引が行われていたことが分かる。

 那智と東海地方とは、年貢輸送だけでなく、船や巡礼者を通じて、恒常的な交流関係も存在していた。天正十年(1582)、実報院道勢は切米(年貢)2石を来年の「遠州船」に渡すことを伝え、三月中に三河からの巡礼者が来ない場合には、四月に下野(下総か)結城氏が巡礼に来るので、そちらに託すことにすると伝えている(「潮崎稜威主文書」)。那智に「遠州船」があり、那智と東海地方を往来していたことがうかがえる。

参考文献

朝日昇る海岸(那智の浜) from 写真AC

*1:鳥居政所は那智山の政務に関係したと思われる機関。川関中村の川関遺跡では、平安末期から鎌倉期に最盛期を迎えたとみられる遺構や高価な輸入陶磁器などが見つかっており、ここを鳥居政所とする見方がある。

*2:ただし中世史料において湊とは出てこない。

*3:天満社は少なくとも中世後期には存在していた。応永七年(1400)の鰐口、また永正元年(1504)の棟札写もあると伝えられる(『紀伊風土記』)。戦国期には那智山執行の廊之坊や尊勝院などの那智御師遷宮に積極的に関わるなど、那智御師との関係が深いとされる。