戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

備中紙 びっちゅうがみ

 備中国で生産された紙。備中国は平安期以前から紙の産地だったが、15世紀中頃から特に檀紙類の産地として知られるようになる。備中国内では新見荘など北部地域で生産が盛んであった。

備中檀紙の登場

 公家・平信範の日記『兵範記』の久寿二年(1155)十月廿四日条によると、法成寺盂蘭盆講諸国召物として、「美濃」(上品弘紙の意味)が備中国および備後国丹波国但馬国の諸国から各300帖が貢進されている。平安期には既に備中国が紙の産地であったことが分かる。

 中世、高級紙として檀紙があらわれる。その産地として特に知られたのが讃岐国であり、南北朝期成立の『庭訓往来』には特産品として讃岐国の円座と檀紙が挙げられている。しかし室町期の応永年間以後、讃岐の檀紙は史料からみえなくなり、代わって備中檀紙が登場するようになる。

 その早い例が伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』永享十三年(1441)正月十九日条であり、贈答品として「備中檀帋十帖」が「高檀紙」や「練貫」「織小袖」などとともに記されている。

備中者紙之名所也

 中世、檀紙には引合や小高、大高などいくつかの種類があった。引合について、文安年間の『壒嚢鈔』の記事に「此檀紙ニ大小アリ、当時小キヲノミ引合ト云ト思フ人アリ」とあり、檀紙の小形のものを指していたとみられる*1

 小高、大高は、「高檀紙」*2の種類とみられる。『師守記』貞治六年(1367)七月二十一日条に「小高檀紙」の名称がみえる。「大高檀紙」の名称も『看聞日記』永享六年四月四日条を初見として史料に登場する。

 備中国でも引合や小高檀紙が作られていたらしい。『尋尊大僧正記』長禄二年(1458)九月十日条に「八朔方算用事」として「備中引合二帖」が120文で計上されている*3

 備中引合は贈答品としても用いられた。『鹿苑日録』によれば、長享元年(1487)閏十一月、備中国日羽庄主が引合一束を鹿苑院に贈っており、天文六年(1537)六月には備中国の使者が大引合一束を等持院に持参している。

 また小高檀紙についても、明応四年(1495)冬に聯輝軒永崇が備中国から小高檀紙を三条西実隆に贈っている(『実隆公記』)。享禄元年(1528)に著された武家故実書『宗五大草紙』にも「大名衆ハ備中紙の小高檀紙を一重二に折て御用候」とある。

 このように15世紀以降、備中国は檀紙類の産地として知られるようになった。『鹿苑日録』永禄九年(1566)五月七日条には下記のような記載がある。

蔭涼曰、諸山小高檀紙五枚、十刹五枚、出世之仁可出之云々、前代者御料所在備中之国、備中者紙之名所也、書出奉行取自御料所来紙書之、雖然近代備中不知行之間、出世之仁不祥出之云々

 以前の幕府は備中国に料所を領有しており、同国が紙の名所であったことから、奉行は備中国の料所から紙を取り寄せて文書を出していたという。

備中国内の紙産地

 備中国の料所は、文正元年(1466)十月付の文書によれば、同国の東北境の山中に位置する小坂部郷(現在の新見市大佐小阪部)に該当するという。

 小坂部郷の西南に東寺領新見荘があった。同荘の年貢は米や蕎麦など多くが銭で納められたが、と漆と蝋は現物で納めることになっていた。延徳三年(1491)十月に領家(東寺)の代官となった妹尾重康は、請文の中で、紙10束5帖を東寺に納めることを契約している。

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 また小坂部郷東南の水田郷(現在の真庭市)は公家の山科家の所領だった。延徳三年(1491)七月、水田郷領家方半分代官に補任された阿部有隆が水田郷の土産として漆2合、蠟燭1つとともに高檀紙10帖を山科家に進上し、これらを毎年京進する旨を約束している(「山科家礼記」)。

 新見荘から高梁川を下った右岸に石清水八幡宮領水内荘がある。年未詳十二月二日、同荘の高橋光実が石清水八幡宮の「駿河小路殿」に引合10帖を祝儀として進上しており(「石清水文書」)、水内荘で引合が生産されていた可能性がある。

 備中国西南部に位置する井原荘は、相国寺塔頭玉潤軒の所領だった。応仁文明の乱以前は、京都に千貫の年貢がとどき、そのほかにも漆や蠟などとともに紙が貢納されていたという(『蔭涼軒日録』)。

備中紙を扱う商人

 応永八年(1401)四月二十八日、新見荘の領家方所務職を岩奈須助宣深が請負った際、「四条坊門東帋屋八郎二郎」が宣深の請人(保証人)となっている。「四条坊門東帋屋八郎二郎」は、その名から京都の紙商人とみられる。帋屋八郎二郎は新見荘と取引関係があり、それゆえに、東寺とも密接な関係を持っていたとみられる。

 天文十九年(1550)五月、公家の山科言継は、京都室町の紙屋備中屋より写経用の厚紙一帖を取り寄せている(『言継卿記』)。備中屋中屋は備中国出身とみられ、出身地の特産品である備中紙を扱っていたのだろう。

 なお備中国の厚紙は奈良でも販売されていた。奈良興福寺の僧・尋尊は、寛正六年(1465)六月晦日、「備中厚紙一帖」を18文で購入している(『尋尊大僧正記』)。

参考文献

看聞日記 : 乾坤 [34] 永享十三年正月十九日条
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:南北朝期の今川了俊は「源氏にも書て候道のくかミ(陸奥紙)のえならぬなどと申へく候ハ当時の引合事にて候」と述べている。(「今川了俊書札礼」)。陸奥紙(すなわち檀紙)と引合を同一視していたことが分かる。一方で『実躬卿記』正安四年(1302)二月二日条に「引合百帖、厚紙五十帖進入、又檀紙少々置之、人々分取了」とあり、引合と檀紙を並んで記している。引合は檀紙の一種類であったが、檀紙と全く同じ物とはみなされていなかったことが分かる。

*2:『編御記』建永元年(1206)四月条に、「高檀紙」の名称が認められる。また『園太暦』文和五年三月三日条に「御製高檀紙ニ被遊了、中殿御会以前ハ普通檀紙候歟」とあることから、高檀紙は従来の檀紙とは異なるものであったことがうかがえる。

*3:同じく『尋尊大僧正記』長禄四年八月四日条にも「八朔方算用事」として「備中引合二帖」が120文で計上されている。なおこの時、杉原紙2帖は100文であった。