備中国北部の荘園である新見荘で生産された紙。備中国は『看聞日記』永享十三年(1441)正月十九日条に「備中檀帋」がみえるなど、高級檀紙の産地として京都でも知られていた。
新見荘の特産品
寛正六年(1465)の算用状によると、新見荘において農民から徴収される年貢公事物は、米、麦、大豆、漆、そして紙があった。そのほか徴収されるものとして、蕎麦、栗、蠟があった。これらのうち紙と漆、蠟は、現物のまま荘園領主である京都の東寺に納められた*1。現物納である三種は、新見荘の特産物として重要な商品であったことがうかがえる。
延徳三年(1491)十月二十八日、領家(東寺)の代官となった妹尾重康は、請文の中で「漆五升弐合 庄舛定 紙拾束五帖、任先例致進納事」と述べている。妹尾重康は、新見荘から5升2合の漆、および10束5帖の紙を東寺に納入する契約であったことが分かる。
応仁二年(1468)十一月十二日付で新見荘の荘官*2が新見荘代官らに宛てた書状に下記のようにある。
公事帋之事壱束四百八十まいにて候、中おりを八十まい御免候て、四百まいめされ候て給候へと申候
新見荘では「中おり(折)」が生産され、年貢として納入されていたことが分かる。『大日本国語辞典』では、中折は「鼻紙用などの半紙、帖のまゝに二つに折りたるをいふ」と説明されている。
また「壱束四百八十まい」の記述から、新見荘における紙の単位が分かる。まず、1束=10帖ということは、中世では多くの事例が確認できる。このことから、新見荘においては、1束=480枚、すなわち1帖=48枚*3であったことになる。
向後能々せッけん候て可被上候
寛正三年(1462)十二月十三日、当時の新見荘の領家方代官であった祐清は、紙の徴収に苦戦していた。年貢の紙9束のうち1束しか納められておらず、祐清は残り8束を1貫文で購入し、東寺への納入に充てたことを東寺公文所に報告している。この他に「御あつらへの帋(紙)」を3束調えており、合わせて12束の紙を上洛する人夫に預けて送っている。
現物納となっていることから、新見荘と京都の紙価格には大きな差があり、京都で売却すると大きな利益となったと考えられる。前述の祐清は、新見荘において紙8束を1貫文で調達しているが、京都ではこれを大きく上回る価格がついたのだろう。
このためか東寺は、新見荘から納められる紙の品質管理について、注文をつけることもあった。寛正六年(1465)、東寺は次のような書状を下している。
公事紙是又去年分十束余、又去年分二束余未進、被是破抜群紙只六束運上候。料紙散々破物、向後能々せッけん候て可被上候
つまり、公事紙の品質はよく検査して送るように指示を出している。一方で、百姓が粗悪品を年貢用としていた可能性もある。良品は市庭にまわし、畿内から来訪した商人らに高値で売却していたのかもしれない。
紙商人
応永八年(1401)四月二十八日、新見荘の領家方所務職を毎年60貫文を納める契約で岩奈須助宣深が請負った。同日、「四条坊門東帋屋八郎二郎」が宣深の請人(保証人)となる旨、請文を東寺に出している。
「四条坊門東帋屋八郎二郎」は、その名から京都の紙商人とみられる。帋屋八郎二郎は新見荘と取引関係があり、それゆえに、東寺とも密接な関係を持っていたとみられる。
そのほか、応仁二年正月廿日付の割符案にみえる「さかいひつ中やひこ五郎(堺備中屋彦五郎)」が紙を扱っていた可能性がある。備中屋彦五郎は、新見荘で振り出された割符の引受人であった*4。
商人には出身国を屋号とする者が多く、備中屋は備中国出身者と推定されている。直接の関連はないが、天文十九年(1550)、公家の山科言継は、京都室町の紙屋備中屋より写経用の厚紙一帖を取り寄せている(『言継卿記』天文十九年五月十二日条)。