戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

たまかき

 備中国新見荘の惣追捕使・福本盛吉の兄弟。女性ともされる。新見荘代官祐清の死後、その遺品の形見分けを望む書状を東寺に書き送ったことが知られる。

代官祐清の横死

 たまかきの兄(または弟)福本盛吉は、新見荘の領家(東寺)が補任した荘官である三職(公文・田所・惣追捕使)の一人であった。寛正三年(1462)八月五日、領家の東寺から派遣された代官祐清が新見荘に到着。たまかきは盛吉とともに祐清に関わったとみられる。

kuregure.hatenablog.com

 それから約1年後の寛正四年(1463)八月二十五日、たまかきは領家方の政所(荘園の政庁)にいた。その時、領内を巡視中だった祐清が殺害される。殺害現場は政所から一里ばかりの「御宮」であったという。

 事件の報に接した政所は騒然となったとみられる。福本盛吉ら三職や領家方百姓は、ただちに犯人の一人である谷内の屋敷に押しかけ、建築中の主殿を焼き払った。

祐清の法要

 祐清の弔いは、政所に近い善成寺で三職らによって懇ろに行われ、中陰も済まされた。祐清殺害を受けて九月四日に東寺から派遣された上使・本位田家盛は、「善成寺へも又ハ三職方へも御ほうひあるへく候」「ここちよくそのせいはいお、いたされ候間、いよいよごほうびあるへく候」と三職の働きを賞賛する報告を東寺に送っている。

 法要と前後して、たまかきは祐清の遺品を記録し、「まんところとの(政所殿)」へ提出したという。そして、遺品の多くは祐清の葬儀に関連して使用したとして、品目と数量、用途をリスト化して東寺に報告している。

一 御足一貫文 そのきわいろいろニつかい候
一 あおこそて(青小袖)一 しゆんけ(出家)ニまいらせ候
一 ぬきてわた(抜き手綿)二 同しゆんけ(出家)ニまいらせ候
一 かたひら(帷子)一 同しゆんけ(出家)二まいらせ候
一 たゝみおもて(畳表)五まい うり候て これも あとの事二つかい候

 御足(銭)は葬儀の費用として使われた。青小袖などの衣料品は、書状の別箇所で「ほねおもおられたるしゆんけ(出家)」、つまり法要で世話になった僧に礼物として与えたとしている。

 この点について、上使・本位田家盛は東寺への報告書の中で以下のように述べて、たまかきの報告を肯定している。

福本方之きやうたい(兄弟)ゆうせい(祐清)になしみ申され候事にて候へハ、せうせうの物共の事ハ、其きわはしりはハれ候儈ニも、出され候よし、申され候。同あとのとむらいなんとにも仕たるよし、申され候間、そのかくれなく候。

形見分けを望む

 祐清の遺品の多くは、その法要のため礼物とされたり、売却されたが、少し残ったものもあった。たかまきは、自分は祐清に馴染んでいたとして、東寺への書状で以下のように故人の形見分けを申し立てている。

すこしの物おは、ゆうせいのかたみにも、みまいらせたく候。給候ハゝ、いかほと御うれしく思まいらせ候

 たまかきが祐清の形見として望んだのは、それぞれ一枚の、白い小袖、紬の表、布子であった。

 たまかきは、前述の上使・本位田家盛にも、形見分けを強く願い出たらしい。しかし家盛としては、「れうけんなく(料簡無く)候」(自分としてはどうしようもない)と回答するにとどめた。

 一方で家盛は、東寺への書状に「しかるへきやうに御うち(扶持)あるへく候」とも記している。東寺の担当者がたまかきの書状を読み、その希望に沿った対応をしてほしいとの思いもあったとみられる。

参考文献

  • 岡山県史編纂委員会 『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 岡山県 1991
  • 山内圭 「「たかまき書状」の現代英語訳」 『新見公立大学紀要 第37巻』 2016
  • 瀬戸内海総合研究会 編 『備中國新見庄史料』 国書刊行会 1952

JR新見駅前のたまかき像

JR新見駅前には祐清とたまかきの2つの像が向かい合っている