戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

酒(山科東庄) さけ

 公家・山科家の膝下荘園である山科東庄において醸造されていた酒。東庄の各家で自家醸造されていたとみられる。山科家の家司で東庄代官でもある大沢久守も、政所で醸造を行っていたことが『山科家礼記』にみえる。

山科東庄における酒需要

 『山科家礼記』によれば、大沢久守は訪ねて来た者に対して、「酒候也」「御使酒のみて帰也」「酒まいらせ候」「酒のませ候」と、必ず酒を提供している*1。このため、久守は購入や贈答および自家醸造によって、常に酒を用意していたと考えられる。

 一方で東庄の人々も、ことあるごとに久守に棰酒や桶酒、銚子酒を贈っている。また久守の下向滞在中には、政所や三郎兵衛といった裕福な「おとな衆」(上層住民)が、朝飯や夕食を振舞うが、必ず中酒や大酒を伴った。中酒は食事とともに飲む酒、大酒はその後本格的に酒宴となり飲む酒を意味する。夜だけでなく「昼の大酒」もあった。

住民たちの自家醸造

 山科東庄の住民は、山科家が発行する商売札を携えて頻繁に京都との間を往来していた。このため、特別な場合は市中の酒屋から酒を購入できる環境にあった。しかし、日常に消費する酒は自家醸造であったと考えられている。

 東庄においては、四月の祭礼の酒を「口アケ候トテ」と、十二月の正月用の酒を「初穂」として、政所や三郎兵衛などが届けている。このうち三郎兵衛は「好子屋(麹屋)」の屋号を持ち、東庄きっての経済力を有する「おとな衆」であった。その屋号は、独占的な酒麹販売に由来するとみられる。

大沢久守の酒造り

 中世の洛中の酒屋は醸造に甕を使用していた。一番簡単な方法は、蒸した酒米と麹米を合わせ、水を加えるだけだったという。大沢久守も東庄において、秋の収納(年貢納)と正月用の酒を仕込んでいたことが『山科家礼記』にみえる。

 明応元年(1496)九月二十一日、久守は収納の際の酒を造るため、6斗5升の酒米を3斗8升は蒸米に、残り2斗7升を麹米にしている。そこに水を加えて、甕の中で発酵させたと推定される。

 十月十一日、「収納酒口アケ候」とあり、九月に仕込んだ酒が二十日で醸造されていることが分かる。出来た酒は、醪酒(濁り酒)であったとみられる。醪酒は甘口でアルコール濃度も低い。またすぐに傷むので、収納の日に飲み切ったのかもしれない。

 十月十五日、翌日の収納の日の為に、乾鮭、大根、里芋、塩、味噌が購入された。酒とともに振舞う味噌汁の材料とみられる。また収納の酒は燗をして飲んだらしく、燃料の柴と割木も併せて購入されている。

 十月十六日、20人近くの東庄住民が参加して収納(年貢納)が行われた。同日、久守は正月用*2の酒を仕込んでいる。仕込量は収納酒の倍であった。

 このように山科東庄では、久守同様に各人が自家醸造で醪酒を造り、庄内の需要を満たしていたと考えられる。一方で山科家は、東庄を介して贈答用の酒として大津棰を入手している。

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参考文献

  • 米澤洋子 「中世後期の山科東庄の経済活動ー贈答を視点としてー」(京都橘大学大学院論文『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』 2020)

にごり酒 from 写真AC

*1:中には明らかに年少と思われる子の使いにも酒を飲ませて返している。この時代の人々は、子供に対しても駄賃代わりに酒を飲ませていたことが分かる。

*2:年明けの「七月祝」の「地下のおとな酒」用とみられる。