戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大津棰 おおつたる

 近江国大津で生産されたとみられる酒。大津に近い山科を領した公家・山科家は、山科東庄を通じて大津棰を調達し、贈答に用いている。

大津の酒造業

 園城寺三井寺)の門前町として、また琵琶湖西岸の港町として栄えた大津では、中世後期、酒造業の発展もみられた。延徳二年(1490)八月、「大津・松本酒屋役」が園城寺雑掌に命じられている。

大津棰の調達

 山科家の家司・大沢久守を主な記主とする『山科家礼記』には、大津棰の調達および贈答に関する記録が散見される。初出は文明十二年(1480)四月二十五日条であり、応仁・文明の乱終結後、京都にも流通した酒と考えられている。価格は通常は一荷140文から160文であるが、一荷300文であることもあった。棰(樽)の大きさによると推定される。

 山科家は文明十二年(1480)に坂本寺家を訪問した折に大津棰を贈っている。坂本は山科家が応仁・文明の乱を避けて疎開した場所で、寺家泉梶井家の南の家で数年暮らした。その時に常用していた酒である可能性もあるという。

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 山科家の膝下荘園である山科東庄のある山科と、大津棰の生産地である大津とは、四宮を越えれば目と鼻の先にあった。この為、京都で購入する酒よりも融通が利いた。例えば長享二年(1488)四月、一荷を取り寄せているが、代金300文は被官五十嵐より借りている。また小野竹公事銭から払わせることや、東庄の山手や地子と相殺することもあった。

 手元に現銭がない場合でも、東庄より取り寄せることが可能な、都合のよい、しかも贈答にかなう味の良い酒であったとみられる。

山科家の贈答品

 山科家は贈答に用いる酒として、大津棰を用いた。長講堂や斯波義敏(立て花*1で交流があった)、延徳三年(1491)十月に近江陣中(三井寺)に布陣していた将軍足利義材の寵臣・葉室光忠、金光院兄弟などに贈っている。葉室殿へは、水田郷の代官職改替を依頼する際の贈答酒であった。

 山科家は大津棰を定期的に注文していた。長享二年(1488)の場合は、四月1回、五月2回、六月2回、七月2回、八月2回、九月1回の計10回も取り寄せている。この年は七月に烏帽子子数人から「生身魂」として大津棰一荷も贈られている。

 山科家は、贈答酒として大津棰以外にも洛中きっての名酒「柳酒」を用いた。しかし柳酒は、文明年間には一荷300文と大津棰の二倍の高値であり、このためか山科家は禁裏や特別な相手のみに贈っている。送り先や目的に応じて、大津棰と柳酒を使い分けていたとみられる。

参考文献

  • 米澤洋子 「中世後期の山科東庄の経済活動ー贈答を視点としてー」(京都橘大学大学院論文『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』 2020)
  • 酒匂由紀子 「日本中世京都における酒屋の実態についての研究」(『財団法人たばこ総合研究センター助成研究報告』 2016)
  • 小野晃嗣 「中世酒造業の発達」(『日本産業発達史の研究』 法政大学出版局 1981)

滋賀県 三井寺と琵琶湖 from 写真AC

*1:生け花の初期の様式。