戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

雪舟等楊筆「山水図巻」 さんすいずかん

 雪舟等楊筆の山水図の巻子。跋文部分を含めた全長は4.51メートル。雪舟が「画本」(絵手本)を求める弟子の等悦に描き与えたものとされる。前半は雪舟の真筆だが、後半は後世の画家の手による雪舟画の模写となっている。

山水図巻の構成

 山水図巻における雪舟の真筆は絵の前半のみで、後半と雪舟の跋文(後書き)は後世の模写。水辺の村落を描く前半(雪舟真筆部分)に対して、後半(模写部分)には丸みを帯びた山々の重なりが描かれる。その後に雪舟跋文模写、木下俊長由来書、狩野惟信跋文が続く。

 この「山水図巻」は、江戸期に豊後国日出を領した木下家に伝わっていた。絵の後ろの「木下俊長由来書」は、日出木下家の三代・木下俊長が、この絵が自家に伝わった経緯を記す由来書となっている。

木下家伝来の経緯

 「木下俊長由来書」によれば、「山水図巻」伝来の経緯は以下の通りだったという。

 俊長の祖父・木下延俊が、友人の細川忠興と二人でいるとき、長谷川という名の画家が来て、雪舟の絵の売却を持ちかけてきた。そこで忠興が、巻物を二つに切って掛軸とすることを提案。絵を真ん中で切って二人で分け合い、はじめの部分を延俊が、後ろの部分を忠興が持つことにした。延俊はさらに、長谷川某に命じて細川忠興の元に渡った画巻の後半部分と雪舟の跋文との模写を作らせて、自分の絵に添えて保管しておくことにした。

 「山水図巻」の後半部分と雪舟跋文は、この時に長谷川某によって模写されたものであることが分かる*1。なお「山水図巻」前半の雪舟真筆部分は、長谷川某の模写による後半部分とは、全く別の絵とみられている。伝来の歴史のどこかの時点で、後半に付加されたものである可能性があるという。

雪舟と等悦

 模写された雪舟跋文には、文明六年(1474)に雪舟が弟子の等悦の画本(絵手本)とする為に、この絵を描き与えたことが記されている。

 雪舟は中国に遊学した際、同地の名手の絵を見たが、それらは高克恭*2に倣う作品が多かったという。このため雪舟も高克恭風の山水図を描くようになり、等悦にもその山水図の写しを与えることにしたのだという。雪舟はさらに、夏文彦(『図絵宝鑑』*3著者)も「高克恭の筆意に及ぶ画家は稀である」と言っているとして、等悦を激励している。

 実際に、前半部分と異なり、後半部分は高克恭の画風にあたるとされる。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

山口県立美術館。現在、「山水図巻」はこの美術館に所蔵されている。

*1:細川忠興が所持した雪舟筆の後半部分は、後に明暦の火事で焼失したという。

*2:中国元代の画家。字(あざな)は彦敬。

*3:三国の呉の時代から元の時代までの画家伝。