室町期の画家。雪舟等楊の弟子。丹波国の出身で*1、子に季英周孫という画僧がいた*2。
雪舟からの激励
文明六年(1474)正月、雪舟等楊は弟子の等悦の求めに応じ、画本(絵手本)として絵を描き与えた。
『山水図巻』の雪舟自跋写によれば、雪舟は中国に遊学した際、同地の名手の絵を見たが、それらは高克恭*3に倣う作品が多かったという。このため雪舟も高克恭風の山水図を描くようになり、等悦にもその山水図の写しを与えることにしたのだという。
雪舟はさらに、夏文彦(『図絵宝鑑』*4の著者)も「高克恭の筆意に及ぶ画家は稀である」と言っているとして、等悦を激励している。
明国に渡る
文明十二年(1480)、五山僧・希世霊彦は、等悦が雪舟から画法伝授の印として与えられた如拙筆「放牛図」に賛を記している(『村庵藁』)。この賛には「頃歳、悦遊大唐自回」とあり、等悦が師と同じく明国に遊学していたことが分かる。
この年の前回の遣明船は文明八年(1476)四月に堺を出航しており、等悦はこの船で明国に渡ったものと思われる。同船は翌年明国へ到着し、文明十年(1478)に帰還している。なお五山僧・季弘大叔の日記『蔗軒日録』には、等悦の絵が明国において賞賛されていたとする記事がみえる*5。
桂庵玄樹との交流
その後、等悦は明応元年(1492)頃から薩摩国に滞在していたらしい。明応二年(1493)、同じく薩摩国に滞在していた桂庵玄樹が等悦筆の扇画面に賛を記している(『島隠漁唱』)。
明応三年(1494)二月、等悦は桂庵玄樹のもとに周防国の聯延伯の書状をもたらした。同年、薩摩国で2年を過ごした等悦は船で本州に帰国。帰り際に、桂庵玄樹に扇への詩の書き込みを依頼していたことが『島隠漁唱』(桂庵玄樹の詩集)にみえる。