雪舟等楊が美濃国伊自良の楊岐庵を描いたとされる山水図。雪舟は文明十三年(1481)秋に美濃国の正法寺を訪れており、同寺の春蘭寿崇に招かれて楊岐庵にも赴いたとみられる。
雪舟の美濃訪問
文明元年(1469)七月、雪舟は中国明朝から帰国。文明八年(1476)三月には豊後国にいたことが確認され(「天開図画楼記」)、文明十一年(1479)冬には周防に滞在し、山口を拠点に活動していたという。
文明十三年(1481)秋、雪舟が美濃国の正法寺を訪れていたことが万里集九の「梅花無尽蔵」に記されている。正法寺は美濃守護土岐氏の居城である革手城(岐阜市正法寺町)の隣に位置し、この地の中心的な寺院であったとされる。
万里集九は「三体詩」(南宋の周弼が編んだ唐詩のアンソロジー)の講義をするために正法寺にやって来ており、雪舟は万里のために中国の風景である金山図を描き、万里が一偈を書いた(「梅花無尽蔵」1)。万里は雪舟の絵に驚いており、10年ほど後の「 屏風雪舟揚公所画跋」で、「金碧を施さず、意は筆の外を翔ける。趣は宇中(宙)を跨ぎ、寔に縄墨の制する能う所に非ざるなり」と記している(「梅花無尽蔵」6)。
楊岐庵
この時雪舟は、正法寺の春蘭寿崇(斎藤利国の弟)が美濃国伊自良(山県市)に構えた楊岐庵に、万里集九らとともに招かれている。そこで万里は「山房秋晴」と題した詩を詠み、雪舟は付近の風景を「山寺図」として描き出した。
「山寺図」の原本はすでに失われている。しかし寛文十二年(1672)に狩野常信の模写したものが東京国立博物館に所蔵されており、もとの絵の雰囲気をよく伝えているとされる。
それは、いかにも田舎の風景で、伝圃の向こうに鳥居があり、左奥に寺らしき一群の建物、奥の石垣の上と山の中腹にもそれぞれ一宇が見える。しかし絵のテーマである楊岐庵がどれなのかは判然としないという。
なおこの「山寺図」が楊岐庵を描いたものであることは、上半にある賛文によって判明している。すなわち、希世霊彦の賛文に「楊知賓画く所の山寺の図に題す」とあり、蘭坡景茝の賛のあと横川景三の賛に「寺は楊岐に似て屋壁踈なり、・・・」とあることによる。これらの賛文は、この図を贈られた春蘭寿崇の依頼で、文明十五年(1483)に京都で希世霊彦らが書き入れたものと考えられている。