白山の登拝口に開かれた白山信仰の拠点・平泉寺の境内地と、その周辺の複数の市町からなる一大宗教都市。越前の大動脈・九頭竜川沿岸に位置する。
上流に沿えば美濃国に通じ、下流に三国湊、峠を越えて芦見川沿いに阿波賀、一乗谷にもつながる交通の要衝にあった。最盛期の15〜16世紀には、48社、36堂、6000坊が立ち並んだという。
僧侶の金融活動
平泉寺は9世紀頃に、成立したとみられる。以後、周辺荘園を侵食しながら勢力を増し、鎌倉から室町期にかけて、藤島荘など越前の多くの荘園を支配した。
平泉寺の僧は白山の神に捧げられた初穂米を貸し付け、借上人として活発な金融活動を行っていた。無数の坊院の背景には、この経済力があったとみられる。
戦国期の巨大都市
『朝倉始末記』によれば、戦国期の平泉寺は「玉楼銀閣二千房 終宵酒宴又歌会 錦上敷花坐焼香」であったといい、その繁栄を伝えている。
実際、平泉寺遺跡の調査から、計画性の高い都市設計が明らかになっている。また出土陶磁器も密度、量ともに多く、大きな消費都市であったことを裏付けている。
一向一揆により焼失
平泉寺は朝倉氏が越前支配を進める中で、文明十三年(1481)ころからその支配下に入る。しかし、天正二年(1574)に織田氏の攻撃で一乗谷が滅び、朝倉氏も崩壊した。
その後、朝倉義景を裏切った朝倉義鏡を迎え入れたことを口実にされ、一向一揆の攻撃を受けてしまう。これにより平泉寺は「空シク灰燼」(『朝倉始末記』)となって焼失した。