江戸初期の絵師俵屋宗達が描いたとみられる総金地の二曲屏風。左右一組(二曲一双)の構成。向かって右の屏風に白い風袋を抱えた緑色の風神が、左の屏風には連鼓を背負った白色の雷神が描かれている。現在は建仁寺所蔵。
概要
「風神雷神図屏風」は、総金地の二曲屏風が左右一組(二曲一双)で構成されている。左右それぞれの大きさは縦154.5cm×横169.8cm。金箔を貼った跡が格子状に見える。向かって右の屏風に白い風袋を抱えた緑色の風神が、左の屏風には連鼓を背負った白色の雷神が描かれている。
画中には落款も印章もない。しかし緊張感のある構図、落ち着いた色調、のびやかな描線、さらに雲の柔らかい質感を表した「たらし込み」の筆技などから、俵屋宗達以外の画家を考えることは難しいとされている。
宗達筆であることを疑う説はないが、一方で制作年代には諸説ある。その一つが寛永十六年(1639)とする説であり、「風神雷神図屏風」を宗達の絶筆とする見解に基づく。また元和末年ごろとする説もある。宗達は元和七年(1621)に再建された京都東山の養源院の障壁画制作を手掛けており、この時期に近い元和末年、少なくとも寛永初年を下らない時期が想定されている。
風神雷神のモデル
宗達が「風神雷神図屏風」に描いた風神と雷神は、日本では古くから描かれてきた。奈良時代8世紀の「絵因果経」(諸家分蔵)にはすでに登場するという。12世紀前半作といわれる高野山霊宝館所蔵の「大集経(金銀字一切経)」巻第二十五見返し絵は、金銀泥によって二神が揃って描かれている。
雷神だけが登場するケースも少なくないとされる。鎌倉期の承久本「北野天神縁起絵巻」には、真っ赤な雷神が登場。天神となった菅原道真の分身ともいえる重要な役回りとなっている。
そして、宗達が直接参考にした可能性が高いのは弘安本系「北野天神縁起絵巻」に描かれた雷神(菅原道真の怨霊が雷神となる)であると考えられている。連鼓を打ち鳴らすばちを握る左手は、ふつうではありえないポーズをとっている。宗達は「雷神図」を描く際、弘安本系絵巻の雷神の異常な姿態を取り入れ、宗達独自の姿にアレンジしたとされる。
一方で弘安本系「北野天神縁起絵巻」には、風神は登場しない。しかし最初に清涼殿に現れ雷を落とす雷神の姿が、宗達の風神の形に近く、宗達はこの雷神像の形姿を典拠にしたと考えられている。この弘安本系「北野天神縁起絵巻」の雷神は、左前方向き、疾走するポーズで、両手にばちをもつが、宗達画ではばちを風袋に変えている。
なお宗達以前に、雷神と風神を組み合わせて単独に描いた絵画作品はないとされる。
「雲龍図屏風」と「雷神図」
宗達が関わった作品の中で、「風神雷神図屏風」との関連が指摘されているものに「雲龍図屏風」(フリーア美術館所蔵)と「雷神図」(クリーブランド美術館所蔵)がある。
「雲龍図屏風」は、宗達の水墨画の屏風の代表作で六曲一双屏風の両隻に署名「法橋宗達」、朱文円印「対青」を備える。その左隻の龍が「風神雷神図屏風」の雷神とポーズが相似するという指摘がある。加えて両者は屏風の大画面に二神あるいは龍のみを描くこと*1、それらが黒雲に乗ることも共通している。
一方の「雷神図」は六曲一隻屏風で宗達の工房印とされる「伊年」印が捺される。本来は六曲一双屏風の左隻にあたり、風神を描く右隻を伴ったと考えられている。「風神雷神図屏風」と比べて雷神のポーズはほぼ同じであるが、「風神雷神図屏風」の雷神よりも頭部が伸びて上唇が突き出て、髪は額にかかり、怒りや凄みを感じさせる顔立ちが特徴と指摘されてきた。
また「雲龍図屏風」の左隻の龍と「雷神図」の雷神のポーズが共通し、しかも屏風内でのモチーフの配置もよく似るという。さらに「風神雷神図屏風」の雷神と「雷神図」の雷神の顔立ちの大きな違いである眉間の盛り上がりや長く伸びた上唇も「雲龍図屏風」の龍と共通しているとされる*2。
なお「雲龍図屏風」は全体として宗達自身が関与した工房の作、「雷神図」は宗達の門人の作とする見解がある。いずれにしても、宗達とその工房において同一の図像が繰り返し描かれていたことがうかがえる。
尾形光琳による模写
俵屋宗達は寛永十年代半ばごろに没したと推定されている。それからおよそ80年後の正徳年間(1711〜16)の初め頃、京都の絵師尾形光琳によって二曲一双の「風神雷神図屏風」が制作される。
この光琳の屏風絵は、宗達の「風神雷神図屏風」の現物の画面上に礬砂(膠液に明礬を少量加えた「滲み止め」の溶液)を刷いた和紙をじかに置き、図様の輪郭線を写し取り、それを屏風の本紙に描き写したものだと考えられている。
光琳は模写した「風神雷神図屏風」は、のちに徳川氏の分家、一橋家に収蔵された。光琳筆「風神雷神図屏風」は、文政四年(1821)に酒井雅楽頭家出身の絵師酒井抱一によって模写されている。