戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

織部(美濃焼) おりべ

 美濃焼の一種。慶長十年(1605)頃から元和年間頃まで生産された。多様な色彩やモチーフ、器形が特徴。その名は、同時代の茶人古田織部助重然に由来するとされるが、具体的な関係はよく分かっていない。

連房式登窯の導入

 織部の生産開始は、慶長十年(1605)頃とされる。美濃窯での初の連房式登窯*1が、元屋敷窯(岐阜県土岐市泉町久尻)で開窯されるのとほぼ同時とみられている。

 貞享三年(1686)の奥書をもつ『瀬戸大竈焼物並唐津竈取立之由来書』によると、当時、加藤景延は焼成室単室の大窯*2を操業していたが、帰国する肥前浪人に同行して唐津へ赴き、最新式であった連房式登窯の形や焼き方を習得したという。事実、元屋敷窯の狭間構造は肥前と共通する横狭間であるとされる。一方で、従来の大窯の技術も用いられており、連房式登窯を取り入れることで生産効率の向上を図っている。

 元屋敷窯の大窯では、16世紀末ごろから黄瀬戸瀬戸黒志野といった茶陶が生産されていたが、連房式登窯に変化しても茶陶や懐石用食器の生産に主力を注ぐ従来の姿勢に変化はなかった。ただし、器種組成では織部黒、黒織部といった沓形碗の出土量が増大して全体の32%にも達する。向付や大鉢といった食器は、志野の量産期に比べてやや割合が減るものの41%を占めており、依然として多い。そのほか、茶入、水指、花入、香合、香炉なども出土量が増えている。連房式登窯という最新式の窯を導入することで、茶の湯に関係するやきものの更なる量産化を目指したと考えられている。

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織部のバリエーション

 織部では色彩をキーワードとして、いくつかの種類に分類されている。

 焼成中に窯内から引き出して急冷させることで光沢のある漆黒色を呈する織部黒、これに釉を掛け残して窓を設け文様を施す黒織部、志野の系譜を引く志野織部、鉄分を多く含む胎土を用いた赤織部、銅緑釉と長石釉を掛け分けて長石釉の釉下に鉄絵を描く青織部、異なる胎土を継ぎ合わせて銅緑釉の緑と赤く発色した胎土の対比が鮮やかな鳴海織部、銅緑釉を単独で用いた総織部。また、ほかのやきもの生産地の意匠に迫る美濃伊賀と美濃唐津織部の範疇に含められている。

 色彩面では、ほとんど白一色の志野に対し、織部では白、黒、緑、赤色を単独で用い、あるいは白と黒、白と緑、緑と赤を組み合わせることで多彩なやきものを生み出した。器形では、円形を基準とするそれまでのやきものの常識を覆し、四方形をはじめ長方形、菱形、短冊形、松皮菱形、舟形、扇面形、誰が袖形、千鳥形、洲浜形など、多様な種類がみられる。

 文様のモチーフも多彩であった。縞模様、格子、石畳、鱗、亀甲、松皮菱、扇面、矢羽根のほか、植物では桐、菊、松、竹、梅、蓮、葡萄、桜、梅、椿、桔梗、龍胆、萩、沢潟、葦、薄、動物では千鳥、鷺などが取り入れられている。

 なお織部および黄瀬戸の色彩には、「華南三彩」の影響があったともいわれる。中国の華南地方、特に福建省南部で生産された「華南三彩」は、緑色の釉を基調とし、緑、黄、紫の三色で器面を彩る。堺環濠都市遺跡などで出土例があり、皿や鉢あるいは合子などを中心に、16世紀末ごろから日本にも交易によってもたらされていた。

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織部の生産年代

 前述のとおり織部の生産開始は、元屋敷窯(岐阜県土岐市泉町久尻)で連房式登窯が始まった慶長十年(1605)頃と推定されている。

 また織部の紀年銘資料も数点現存しており、慶長十七年(1612)銘織部獅子紐香炉、慶長十七年銘美濃伊賀水指、元和八年(1622)銘青織部燭台、元和八年銘志野織部台付碗がある。やきもの自体に記された年号は生産年代を示すものとみられ、織部が慶長年間後半から元和年間に生産されたことが分かる。

 消費遺跡である大坂城跡の発掘調査では、豊臣後期(1598~1615)、志野にやや遅れて織部が発生する状況が報告されており、上記の紀年銘資料と年代的にはおおむね一致する。

 元和年間(1616~1624)に入ると、織部は全体的に器形と文様の単純化が急速に進み、装飾的な要素が薄くなるという。これらは、元屋敷窯の廃窯後に稼働した窯ヶ根4号窯や弥七田窯で生産された製品にあたる。

 織部の生産の下限ははっきりしていない。ただし上記の元和八年(1622)銘青織部燭台が銅緑釉の流し掛けという織部終末の特徴をもつことから、下限を元和年間末から寛永年間(1624~1643)初めごろとする考え方が示されている。

京都での流通

 京都市中京区三条通界隈の中之町、福長町、下白山町、弁慶石町の各遺跡からは、唐津、高取、備前信楽、伊賀、美濃といった産地の茶陶が大量に出土している。

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 このうち、中之町遺跡では遺物の点数は1500点近くにのぼるが、その約75%が美濃窯の製品であった。それらの美濃製品は、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部であり、器形は茶碗、向付、鉢、水指、茶入、徳利といった茶陶がほとんどで、特に元屋敷窯の製品と思われるものが多く含まれていた。

 これらの茶陶には、生産地の窯で焼成する際に用いられたトチンなどの窯道具が付着したままのものがあり、多くは使用された痕跡が認められない。実際に使用されたものではなく、商品として店舗で保管・陳列されたものであったとみられる。

 別の史料からも、三条通界隈にやきものを扱う商店があったことが確認できる。すなわち、江戸初期に描かれた「洛中洛外図屏風」には、やきものを並べる店舗の様子が描かれており、寛永年間に刊行された地図『都記』には、三条通沿いに「せと物や町」の記載がみえる。

 これらのことから、中之町遺跡は織部・志野などの美濃焼を中心とした茶陶を商う問屋跡であったと考えられている*3

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織部」の名称の登場

 美濃で織部が生産されていた当時、やきものに対する「織部」の呼称は存在していなかった。

 「織部」の呼称は、織部が生産されなくなってから20数年後になって現れる。すなわち、江岑宗左の茶会記「申ノ茶湯ニ逢申候覚」正保元年(1644)六月十一日条に「瀬戸、織部焼」の水指が登場。同年七月二十一日には「瀬戸、織部焼」の茶碗もみられる。この頃には「織部焼」というやきものが存在し、瀬戸から区別され始めていたことがうかがえる。

 ただしその呼び名が一般化するのは元禄年間(1688~1704)頃まで下るという。江戸中期の京都の公家近衛家煕の日記である『槐記』には、享保九年(1724)の記事に、杯を「織部焼」と呼んだことが記されている。

古田織部助重然

 「織部」の名称は、織部が生産された時代を生きた茶人・古田織部助重然*4に由来する。古田重然天正十年(1582)には千利休の書状に名前がみえ、この頃には利休と親交があったことがわかる。

 古田重然は慶長二十年(1615)に没したが、その名声は死後も消えることはなく、寛永五年(1628)刊行の『醒睡笑』では、以下のようにある。

古田織部の数寄に出さるるほどの物をば、その道をまなぶ、学ばぬも、天然と賞玩し、もてあつかひしゆゑ、中酒に座敷へ用ひられつる盃までも、なべて人、織部盃といひふるる。

 古田重然が、生前に織部の生産に関わった記録は存在していない。一方で重然の茶碗が当時の人間から見ても奇抜であったことがうかがえる史料がある。慶長四年(1599)二月二十八日朝、博多の豪商神屋宗湛は、毛利秀元、小早川秀包とともに重然の茶会に招かれたが、その際の茶碗について以下のように記している(『宗湛日記』慶長四年二月二十八日)。

ウス茶の時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也

 他の茶会記をみると、「ヒツミ(ひづみ)」の表記自体は、瀬戸の他に高麗茶碗や京焼、古瀬戸などにもあらわれる*5。このことから、宗湛のみた「瀬戸茶碗」は、ひづみ具合が他のものとは違い、ひょうげたものと感じるほどの瀬戸黒であった可能性が高い。あるいは、このひづんだ「瀬戸茶碗」が、後世の人々がいうところの織部黒だった可能性もあるという。

 また古田重然がやきものをプロデュースした事例もある。慶長十七年(1612)十一月、重然は薩摩の島津義弘宛の手紙の中で、義弘から送られてきた2つの薩摩焼茶入について、「薬能も無御座候」(釉が良くない)、「薬ハくろめなる薬之多御座候か能御座候」(黒い釉薬を多く使うのが良い)、「所々白キ薬之入候も能御座候」(随所に白い釉が入るのが良い)、「なりハ被成御作せ候が能御座候」(背の高さは高くした方がよい)、「尻ノすばり候ハぬ様」(底部がすぼまないほうがよい)と、形や釉薬に関して極めて詳細に指導している*6

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参考文献

  • 加藤真司 「志野と織部の生産について」(財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007)
  • 財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007
  • 土岐市美濃陶磁歴史館 編 『織部-天下一と流行-』 2007
  • 土岐市美濃陶磁歴史館 編 『元屋敷窯と織部の時代』 2014
  • 西田周平「初期薩摩焼における大陸陶磁器の影響について」(『東アジア文化交渉研究』13 2020)

織部茶碗 17世紀初頭
メトロポリタン美術館公式サイトより

織部向付 17世紀初頭
メトロポリタン美術館公式サイトより

織部手付水注 17世紀初頭
メトロポリタン美術館公式サイトより

織部焼の水注 1601年–1625年
シカゴ美術館公式サイトより

織部徳利 17世紀初頭
メトロポリタン美術館公式サイトより

*1:連房式登窯は、焼成室を複数連ねた窯で、各焼成室に差木孔(薪を投げ入れる孔)を設けて斜面下方の焼成室から順に焚いて上がる構造。下方の焼成室を焚く間に狭間孔から火炎が流入して上方の焼成室を熱するため燃料効率がよい。

*2:大窯とは製品を詰める焼成室が単室で、平面形が二等辺三角形を呈する窯を指す。基本的には、燃料となる薪を投げ入れる焚口、薪が燃える燃焼室、焼成室、煙道からなるが、燃焼室を前後に分けた構造に特徴がある。

*3:ただし発見された遺物群は、何らかの事情のもとに問屋が一括投棄した可能性が高いともみられている。

*4:日本の捕虜となった朝鮮の姜沆は、その著書『看羊録』の中で、古田織部なる者が「天下一」を称していることに言及。花や竹を植えたり、茶室をしつらえたりすれば、人々は必ず黄金百錠を支払って古田織部に鑑定を求めたとする。

*5:天王寺屋会記』天正三年二月条に「ひつミたるかうらい」などの例がある。

*6:この時は上田宗箇が重然の名代として薩摩に赴き、作陶の指導にあたっていた。