戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

唐津 からつ

 現在の佐賀県北西部、玄界灘に面する松浦川河口部の港町。江戸期以前には東西6キロに及ぶ砂洲(後の「虹の松原」)の発達により形成された細長いラグーンがあり、船の碇泊に適した良港だったとみられる。中世、松浦党の拠点となった。

史料上の初見

 南北朝期の正平二十三年(1368)四月十三日付の波多廣押書に「唐津在津」の文言がある。これが史料上の唐津の初見とされる。同時期の建徳二年(1371)八月四日造立の紀年を持つ十一面観音坐像(唐津市内の大聖院蔵)の胎内銘にも「日全国松浦西郷唐津社本地堂本尊事」との一文がある。

 これらのことから、遅くとも南北朝期までには「唐津」と呼ばれる港湾集落が成立していたと推測される。

鏡社住人の高麗侵掠

 『吾妻鏡』の貞永元年(1232)閏九月十七日条には、鏡社の住人が高麗(朝鮮)に渡り、数多の宝物を盗み取って帰国した件が記されている。鎌倉初期、鏡社集落には朝鮮半島も活動範囲とした海民集団(あるいは海賊)が住んでいたことがうかがえる。

 この一帯は鏡神社を核として平安末期からの生活圏が形成れており、鏡社大宮司職を世襲する在地領主・草野氏の根拠地だった。

松浦党の朝鮮通交

 その後も松浦党氏族により唐津朝鮮半島との交流は続いた。市街南西部の神田地区を本貫とする松浦党神田氏は、康正二年(1456)に「上松浦神田能登守源徳」を名乗り朝鮮に使者を派遣。年1隻の船の往来を認められている(『海東諸国記』)。

 弘治元年(1555)十二月にも、「上松浦唐津太守源勝」の使者が朝鮮に訪れたことが記にみえる(『朝鮮国明宗実録』)。

唐津の港湾エリア

 博多の豪商、神谷宗湛の日記に「上松浦唐津村ヲ出行シテ、同ミツ嶋ヨリ船ニ乗リ、筑前国カフリノ村ニ着」く(天正十四年(1586)十月二十八日)との記述がある。この「ミツ嶋」は松浦川河口部の砂洲の先端にあったとみられ、江戸期には「満島山」と称されていた。

 16世紀の当時は浮島であり、ここに唐津と外海をむすぶ港湾施設があったことがうかがえる。江戸末期の地誌類などから、ミツ嶋周辺には中世に多くの寺社が存在していた可能性も指摘されている。

松浦党の「会所」

 14世紀、松浦党の内部では斑島(馬渡島)の知行をめぐる相論があり、同党はこの紛争解決のための会合を唐津で行っていた。上述の正平二十三年(1368)四月十三日付の史料は、関係者の「唐津在津」を機に「理非お可落居候」との文言がみえる。

 永徳三年(1383)七月一日には「御文書出帯」の上で「金屋」に参集するように佐志学他が同族寺田氏を促しており、また三月十七日付(年未詳)の佐志長他一名連署状では、この相論を「一大事さた」と位置付けて「かのくわいそ(会所)」に「上下のすちう(衆中)」が集まるよう斑島厚以下の各氏族に伝達している。

 史料にみえる「金屋」とは、現在の唐津市の「金谷」地区に比定される。松浦党唐津の「金屋」に会合施設である「会所」を設置していた。このことから、唐津の金屋は地域社会の中で中核を担う地区であったとみられる。

参考文献

  • 宮武正登「中世唐津の市と港」(中世都市研究会編『中世都市研究4都市と宗教』) 1997 新人物往来社