戦国日本の津々浦々 ライト版

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菩薩立像(長崎県対馬市厳原町・佐須観音堂) ぼさつ りゅうぞう

 長崎県対馬市厳原町にあった佐須観音堂に祀られていた仏像の一つ。像高124.3cm。木造彩色。推定制作年代は平安時代前期の10世紀とされる。日本で制作された仏像だが、地元では「蒙古仏」あるいは「朝鮮仏像」と呼ばれた。

佐須観音堂に伝来した平安仏

 本像はカヤと推定される針葉樹材の一木造り。厚みのある量感豊かなプロポーションは平安時代前期の一木彫像の特徴とであり、高く結い上げた髻や三面頭飾は、九州北部における平安時代前期の彫像に類例がみられるという。

 本像は、もとは長崎県対馬市厳原町小茂田浜より東方3キロメートル離れた下原鶴野の佐須観音堂に二十余軀の木像群とともに祀られていた。その後、明治二十一年(1888)に樫根の法清寺観音堂に移され、その2年後には東京で開催された第三回内国勧業博覧会出品のため対馬を離れ、別の一軀とともに、そのまま帝国博物館(現東京国立博物館)の収蔵品となった。

「蒙古仏」「朝鮮仏像」と呼ばれる

 1972年、樫根法清寺の木彫群は地元で「蒙古仏」と呼ばれていた。同年に奈良国立博物館文部技官・菊竹淳一氏による対馬の美術工芸の調査が行われたが、樫根法清寺の「蒙古仏」は、実際には本像と同じく平安時代前期の一木彫像であった。

 逆に日本の仏像はどれかと尋ねたところ、朝鮮半島の三国時代(7世紀)の銅造菩薩立像が差し出されたという。対馬島内での仏像の国籍認識が錯綜していたことがうかがえる。

 樫根法清寺の木彫群(すなわち佐須観音堂の木彫群)が「蒙古仏」と呼ばれた背景として、モンゴル軍の対馬侵攻が考えられている。文永十一年(1274)十月、高麗の合浦(慶尚南道馬山)を出発したモンゴル・高麗連合軍が佐須浦(小茂田浜周辺)を襲い、対馬守護代宗資国が討死。モンゴル軍は佐須浦を焼き払って壱岐に向かったと伝わる。

 なお明治維新の際、尊王攘夷派の旧対馬藩士が異国の敵として、本像を刀で切りつけたとの伝があるという。本像の鼻や左頬にみえる傷はこの時によるものと考えられている。

 一方、本像を「朝鮮仏像」とする記録も存在する。佐賀藩多久の学者・草場佩川は、対馬で接遇した文化八年(1811)の朝鮮通信使を記録した『津島日記』の中で、無住の廃寺となった佐須観音堂で木彫群を「朝鮮仏像」と記録し、三尊の中央に立つ本像のスケッチも残している。

参考文献

  • 大澤信 「法清寺観音堂の木彫群 モンゴル軍襲来と仏像の国籍」(九州国立博物館 編 『特集展示 九州渡来仏』 九州国立博物館  2026)
  • 大澤信 「24 菩薩立像」(九州国立博物館 編 『特集展示 九州渡来仏』 九州国立博物館  2026)

【菩薩立像】
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-7?locale=ja

【菩薩立像】
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-7?locale=ja

【菩薩立像】
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-7?locale=ja
明治二十三年(1980)の第三回内国勧業博覧会に出品され、そのまま帝国博物館(現東京国立博物館)の収蔵品となった二軀のうちの一つ。

【菩薩立像】
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-7?locale=ja
明治二十三年(1980)の第三回内国勧業博覧会に出品され、そのまま帝国博物館(現東京国立博物館)の収蔵品となった二点のうちの一つ。