戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯨(長門) くじら

 長門国日本海沿岸には鯨の漂着が時々あり、食用だけでなく鯨油も使用された。鯨は貴重な資源であり、権利をめぐって地域間の争論も発生した。

寄鯨の取扱い

 長門国において鯨は古くから利用されてきた。下関市豊北町の二刀遺跡では、弥生~中世の遺物包含層から中~大型のクジラ類と思われる動物骨2点が検出されている。そのうち、1点は人為的に砕かれた可能性があるという。

 中世には、「寄鯨」(岸に漂着した鯨)が貴重な資源とされていた。永享三年(1431)、「寄鯨」の帰属をめぐって阿武郡奈古村と大井村の村民が争論を起こし、大内氏がこれを裁定した記事が『大津郡誌』にあるとされる。また永禄十一年(1568)三月、豊浦郡吉母と室津の境目に鯨が漂着した際には、この鯨をめぐって両所の給人が争論におよんでいる(「住吉神社文書」)。

 大津郡三隅のうち沢江浦にも寄鯨があり、給人と推測される相良氏が、毛利氏の直轄領であった通浦に断りのうえ、鯨を処理していた(『防長風土注進案』)。近世には、通浦のみが沖で鯨漁を行う権利をもっており、中世末期においても通浦の権利の強さがうかがわれる。

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鯨の利用

  天正二十年(1592)十一月、毛利氏奉行人・佐世元嘉は大津郡大日比浦に対し、大魚(鯨)を取った場合は、対価を遣わすので油は毛利氏に渡すべきことを命じている(「上利家文書」)。

 天文十八年(1549)、毛利元就大内義隆を表敬訪問し、周防山口に滞在した。その際の三月二十三日の饗応の献立に「鮭鯨」がみえる(「元就公山口御下向之節饗応次第」)。ただし、どのような料理であったかは分からない。毛利家臣・玉木吉保は、元和三年(1617)に著した覚書『身自鏡』に自身の料理レシピを載せていて、その中に鯨汁と(鯨の)刺身も記している。

参考文献

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近世、長門捕鯨基地となった通浦の遠景