戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

長浜 ながはま

 石見国中部、広く湾曲した浜田湾の南側に位置する港町。那賀郡のうち。同郡周布郷を本拠とする国人・周布氏の外港だったと推定される。

明国に知られる

 嘉靖四十一年(1562)に明の鄭若曽が著した『籌海図編』では、日本の石見州に「南高番馬」がみえる。これが長浜に比定されている。当時、中国でもその名が知られていたことが分かる。

 日本側の史料では、明応八年(1499)十一月の「三隅興信感状」に「長浜」とみえる。刀の銘文としては既に南北朝期頃から「石州長浜何某」という文言がみえるという。

周布氏の海上ルート

 長浜の東、周布郷を本拠とする国人・周布氏は、天文十年(1541)十月に大内氏から石見国東部の福光湊を含む邇摩郡福光郷の所領を獲得。永禄元年(1558)六月には、毛利氏からも邇摩郡福光郷内所領の再給付を受けるとともに、同郡仁万(石見銀山北方にある港町)の所領も得ている。

 周布氏が本領から遠く離れた地域に所領を獲得した背景には、外港長浜と邇摩郡福光湊、仁万を結ぶ独自の海上ルートがあったことが想定される。

朝鮮との通交

 応永三十二年(1425)、長浜に張乙夫ら十人の朝鮮人が漂着した。彼らを周布兼仲が対馬経由で朝鮮に送還したことを契機として周布氏の朝鮮通交が始まる。この時、周布兼仲は対馬の実力者・早田左衛門太郎の協力を得て、丹木、胡椒などの進上品も整えている。

 周布氏が朝鮮人の送還を行えた背景として、朝鮮-石見を結ぶ民間の交易ルートが存在があったとみられる。『朝鮮実録』には対馬の宗盛弘配下の者が朝鮮で略奪を行い、密かに石見に行って売買を行うことを「生業」としていたと記されている。

  文安四年(1447)から周布氏は朝鮮から「図書」(通行者に与えられる印章)を与えられ、以後、歳遣一船の定約に基づく通交が行われた。通交に伴う交易の内容は明らかではないとされるが、朝鮮からは主として絹、紬、綿布などが輸入され、周布氏からは石見産とみられる刀剣、朱椀、透漆、蝋燭、それから対馬で入手したとみられる南海産の丹木、胡椒などが輸出されたという。

参考文献

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長浜の町並み。旧街道沿いに明治期の古い商家が残されている。

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長浜の町並み。

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長浜の町並み。

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長浜の町並み。

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訂心寺裏の丘から眺めた町並み。

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訂心寺墓地の宝篋印塔。同寺門前の看板には、開山と元兼、元盛の墓碑が墓所奥方にあるとされている。

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訂心寺墓所にある宝篋印塔の残欠。

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大島天満宮

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浜田商港の防波堤から眺めた長浜の町。

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大島と小島。現在は地続きになっているが、かつては沖に浮かび、長浜を天然の良港としていた。

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大島にある社。かつて大島天満宮はこの場所にあったのだろうか。

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長浜の遠景。