伊予国の今治平野北部にあったラグーンに面した港町。伊予府中の外港の一つだったとみられ、少なくとも鎌倉期から海上輸送の拠点として利用されていた。江戸初期、藤堂高虎により今治城が築かれ、その城下町として再編された。
史料にみえる中世今治津
鎌倉後期、弘安九年(1286)三月以前とみられる年に作成された紙背文書に「今治津」がみえる。同文書には、伊予国の国衙近郊で開催された「八十一品道場供養」という儀式のために、必要な道具を奈良から「今治津」へ搬送するなどの内容が記されている。ここから、「今治津」が物資の輸送に利用された港であったことが分かる。
軍記物『太平記』にも今治の港の記述がある。鎌倉末期の元弘三年(1333)閏二月頃、四国勢が後醍醐天皇方(反鎌倉幕府勢力)となり、約六千騎余が宇多津(讃岐国)と「今張ノ湊」に船を揃え、攻め上がろうとしていると記す。「今張ノ湊」は讃岐の要港・宇多津とならび、大軍が出船可能な大きな港であった。
戦国末期の天正十三年(1585)七月、羽柴秀吉の長宗我部氏攻めの際、羽柴方の吉川元長は「今張津」に上陸。小早川隆景と協議のうえ、「竹子と申所」に陣を敷いている(「吉川家文書」)。今治津が鎌倉期以降も重要な港湾であったことがうかがえる。
今治津の所在地
正保年間(1644〜48)に江戸幕府が全国の諸藩に命じて作成させた城絵図の一つに「正保今治城絵図」がある。そこには今治城や城下町とともに周辺地域の主要な景観が描かれており、城下町の北方に「浅古川」(浅川)が描かれ、河口部に「古船入」と記されている。
この「古船入」は同図の今治城内に記されている「船入」に対応する記載と考えられている。つまり、今治城内の港湾(船入)が整備される以前の中心的な港湾を示しているとみられる。
中世の「今治津」は、この浅川河口の港湾「古船入」であった可能性が高いとされる。
元々、「今治」*1は蒼社川左岸海岸部の一部の地名であった。今治村が存続していた当時の地図では、今治村の村域は、城下町域から沿岸部に沿って延び、浅川河口部を含んでいた。これらのことから、「古船入」が所在した浅川河口部は、少なくとも江戸初期以前は「今治」に含まれる地域であったとみられる。
今治津の周辺
浅川河口部から少し遡ると右岸に別宮三島社(別宮大山祇神社)がある。同社は伊予国一宮である大三島の三島社(大山祇神社)から「地御前」として今治平野に勧請されたという。
三島社は中世には地域に大きな宗教的影響力をもった権力であり、その筆頭神官である大祝氏*2は、中世を通じて伊予国内の有力者であり続けた。大三島の本社と伊予府中の交通をはじめとする三島社関係勢力の諸活動と今治津は深く関わっていたと考えられている。
前述の「正保今治城絵図」には、浅川左岸に河口部から奥に向かってラグーンがあったことが描かれている。このラグーンの西に位置する旧石井村辺りでは、元弘三年(1333)閏二月十一日に「石井浜合戦」があり、祝安親が功を挙げている(「三島家文書」)。別の史料では同日に「符中守護」の「参河権守貞宗」(宇都宮貞宗)の館で合戦があったとされていることから(「忽那家文書」)、当時の伊予国守護所が石井浜周辺にあった可能性が指摘されている。
また鎌倉期の嘉禎三年(1237)六月、二階堂行村が宇都宮入道に宛てた書状には「守護所候国地ニ船往還」とある(「忽那家文書」)。当時の守護所が置かれていたのは、船が往還する海浜部であったとみられる。このことからも、今治津隣接のラグーンに近い石井周辺に守護所が存在した可能性は高いとされる。
また浅川の西の近見山の山上には「円明寺」があった。伝承では、初仏閣は壮大で谷々には僧坊が建ち並んでいたが、戦国期の兵乱で焼失し、寺地を移動したという。
近見山中には「西谷坊跡」「馬乗坊跡」「五ツ台寺跡」「坊主谷」「大門」などの地名が分布し、大規模な寺院の存在がうかがえる。そのうち寺院の正門と考えられる「大大門」「小大門」の位置は近見山の東面の谷筋にあり、そこを下ると浅川河口部の今治津方面へ出る。
なお前述の鎌倉後期の紙背文書は、奈良東大寺の僧・凝然の著作の裏に記されていた。凝然は伊予国中東部の在庁官人・越智氏の出身で、上記の円明寺で活動していたことが知られる。凝然はしばしば奈良から下向しており、そのような下向時や「八十一品道場供養」のような法会の物資搬入に際して今治津は利用されたと推定される。
今治津と海上勢力
戦国期の安芸国厳島社神官・野坂房顕が記した覚書によると、明応年間(1493〜1500)頃、伊予国の「イマハリ(今治)」の「マトバ(的場)」という海賊が厳島社を襲撃する事件があった。海賊的場は、十月二十日の夜に厳島社の板敷を焼き、宝蔵に収められていた太刀や刀、「小松殿」(平重盛)の鎧を強奪。しかし海賊たちは伊予国の河野氏に捕らえられ、宝物は厳島社に返還されたという(『房顕覚書』)。
野坂房顕の覚書には、他にも伊予国警固衆の厳島襲撃事件が記されている。ある寅年(大永七年か)の三月、安芸国倉橋島の者と廿日市の河内某の口論に端を発し、厳島神領衆が倉橋舟16艘を襲撃し、倉橋や蒲刈を拠点とする多賀谷氏の一族4、5人を討つという事件が起こる。この報復のためか、蒲刈から160〜170艘の警固船が厳島に押し寄せ、町の各所に放火におよぶ(『房顕覚書』)。
この時、伊予国からも重見氏の警固船20艘ばかりが、親類の多賀谷氏の合力のために駆け付けている(『房顕覚書』)。
重見氏は今治の西の近見山城を居城とした国人領主。文明年間、重見掃部頭通昭は河野通直の娘を室に迎えたとされ、河野氏配下の有力領主として、三島社(大祝氏)や能寂寺などの寺社への文書発給に関わっている(「大山祇神社文書」「三島家文書」「能寂寺文書」)。