戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

多賀谷 兵部少輔 たがや ひょうぶのしょう

 海賊衆・蒲刈多賀谷氏の有力部将。大永七年(1527)三月、厳島を襲撃した。

蒲刈多賀谷氏による厳島襲撃

  三月十六日。廿日市の河内仮屋において、厳島神領衆が倉橋多賀谷氏の関係者と口論し、倉橋側の船16艘を攻撃して10人を討ち取るという事件が起こる。この中には多賀谷氏の一族も4、5人含まれていた。

 これを受けて、小晦日蒲刈多賀谷氏が160から170艘の警固船とともに厳島を襲撃し、市街地各所への放火に及ぶ。風雨になったため、蒲刈多賀谷氏の警固衆は撤退を開始するが、このとき、礼拝して乗船した多賀谷兵部少輔をはじめとする主だった者たち24人が海底に沈んでしまったという。

両多賀谷氏と伊予の警固衆との連携

  この事件は厳島大明神の神威を示すために記した可能性もあるが、ある程度の事実は反映していると思われる。その中で蒲刈多賀谷氏の倉橋多賀谷氏への大規模な加勢から、倉橋と蒲刈の両多賀谷氏の緊密な連携体制がうかがえる。

 また多賀谷兵部少輔が沈んだ後、伊予から加勢に来ていた重見氏の警固船も沈没してしまったとも記されている。伊予出身の多賀谷氏が、依然として出身地との関係を維持していたことが分かる。

蒲刈多賀谷氏の衰退

 『覚書』には、この事件の記述の最後に「其後ハ、カマカリ荒果人体ナシ」とある。天文年間、蒲刈には竹原小早川氏の支配が及んでおり、厳島の事件を契機に蒲刈多賀谷氏が急速に衰えたとも考えられる。

参考文献

  • 『房顕覚書』 (『下蒲刈町史 資料編』 53号)

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沖から眺めた厳島神社厳島を襲撃した多賀谷水軍は大鳥居の沖で沈没したという。