ブドウやナツメヤシから作られた発酵飲料、あるいは酒。イエメン・ラスール朝では砂糖や蜂蜜などの甘味料も加えられた。イスラームにおいては忌避されていたが、中世のイエメン(南西アラビア)では広く普及していたらしい。
ブドウ・ナツメヤシなどからつくる発酵飲料
13世紀後半、イエメン・ラスール朝のスルタン・ムザッファルは、圧搾・精製したブドウ水を「ハムル」と呼び、ブドウや干しブドウ、蜂蜜、ナツメヤシ、砂糖、各種の果物からつくられる酩酊作用がある飲料を「ナビーズ」と呼ぶと説明している。
ハムル*1やナビーズの原料となるブドウやナツメヤシ、蜂蜜、砂糖は、中世のイエメンにおいて広く生産されていた。10世紀のイエメンのハムダーニーの地誌やラスール朝のスルタン・アシュラフが著した農事暦や農書、13ー14世紀に編まれたラスール朝行政文書集からこれらの主な生産地が分かる。
ブドウは北部山岳地域のサアナ周辺や南部山岳地域のタイッズ周辺で、ナツメヤシは沿岸地帯のティハーマやアデン周辺で、蜂蜜はティハーマのザヒード周辺や北部山岳地域、南部山岳地域で、砂糖(サトウキビ)はジブラ周辺で、それぞれ主に生産され、時には課税対象にもなった。
酩酊物か否か
ナビーズは前述のようにブドウや干しブドウ、ナツメヤシなどを水に漬けてつくられた。密閉容器で一定期間漬ければアルコール発酵し、スルタン・ムザッファルが述べたように酩酊作用をもつにいたる。発酵状態が分かりにくいこともあり、9世紀の法学者イブン・クタイバも、ナビーズが酩酊物*2に含まれるかどうかという議論が存在することに言及している。
なおスンナ派のハディース集では、ナツメヤシやブドウから作られるナビーズを飲んでもよい期間を、製造から3日目までとするものもみられるという。これは時間の経過によってアルコール発酵が進むことを危惧するものであり、逆にいえば、人々が飲んだ際に酩酊するほどでもないアルコール飲料であれば、許容され得たとする見解もある。
14世紀、ウサービーは、イエメン南部山岳地域のウサーブの人々の美徳として、その気前の良さなどに加えて、「彼らのうちナビーズを飲んだ者を一人として私は知らない」と述べてハムルの罪を持たないことを説明している。しかし逆説的には、当時、彼らがナビーズが容易に入手できる環境にあったこともうかがえる。
ハムルおよびナビーズの生産
10世紀、ハムダーニーは地誌のなかで、ハムルの地として北部山岳地域の地名を挙げるとともに、サァダ近郊にハムルのための圧搾所があったことを伝える。
13世紀の南西アラビアを訪れたペルシア系の旅行家イブン・アルムジャーウィルは、ナツメヤシの生産に携わる人々が「ナツメヤシや小麦、熟したナツメヤシから、ファディーフと呼ばれるナビーズ」を作っていたことを記録に残している。ただし、「その製造には一昼夜が適切である」とも述べており、アルコール発酵に至っていたかどうか疑問とする見解もある。
あわせて港湾都市アデンでは、サフランの井戸の水にオトギリソウを入れて天日に放置すると甘味を入れていないにも関わらず甘いナビーズになる、とする。アイユーブ朝の時代(12世紀後半〜13世紀前半)、この水はジャナドやタイッズ、サアナ、ザビードへ運ばれてナビーズがつくられたと報告している。
またラスール朝の重要拠点であったザビードでは、ハムルの酢やナツメヤシの酢、糖蜜の酢が流通し、ラスール朝の王族にも消費された。これらの事実は、酢酸発酵で必要となるアルコールが存在したことを示すという。
ナビーズの流通
前述の旅行家イブン・アルムジャーウィルは、ザビードの税収に関する記事において、まちへ入ってくる野菜類などから得られるものが90,000ディナール、鋳造所の館からのものが30,000ディーナール、ナツメヤシの税収が100,000ディーナールのところ、ナビーズの館からの税収は12,000であったことを記述している。このことは、ナビーズの生産が為政者によって保護され、課税の対象になっていたことを示唆している。
またアイユーブ朝期のアデンでは、インド系の奴隷一人に課される輸出関税8.5ディーナールのうち、0.5ディーナールがナビーズの館の徴税人用に充てられたという。
16世紀のイエメン・ターヒル朝期、ザビードの会衆モスクでハディース学の教鞭を執るなどしていたイブン・アッダイバゥは、市場監督官の手引書のなかで、市場における酒の取り扱い方法を説明している。実際、ザビードの市場では、「カダフ」と呼ばれるナビーズ用の容器が100個あたり2ディーナールと2キーラートで販売されていた。
参考文献
- 馬場多聞 「中世のイエメンと酒あるいは発酵飲料」(『立命館文学』681 2023)