安芸灘に浮かぶ倉橋島の南岸に位置した港町。古代以来の瀬戸内海航路の寄港地として、また中世には海賊衆・倉橋多賀谷氏の本拠として栄えた。
遣新羅使の寄港地
『万葉集』には、天平八年(736)に「安芸国長門島」に停泊した遣新羅使一行の歌が収録されている。 この「長門島」は倉橋島に比定される。「磯部」「小松原」の単語がみえることから、桂浜がある本浦に停泊したと推定される。
古代以来の造船基地
また『日本書紀』、『続日本紀』には、安芸国に渡唐船の造船を命じた記事が多くみられる。この中には、倉橋島で造船されたものもあったといわれる。
近世編纂の『芸藩通史』にも、文禄年間に豊臣秀吉の命で倉橋島において安宅船が造船されたと記されている。近世の倉橋では活発な造船業が展開されていることから、倉橋の造船業が古代・中世にもさかのぼる可能性はあるとみられる。
倉橋多賀谷氏の本拠
南北朝期以降、倉橋は海賊衆・倉橋多賀谷氏の本拠となる。同氏によって文明十二年(1480)に桂浜神社(八幡宮)の社殿が造営され、天文年間にも西蓮寺、春日神社が再興された。倉橋多賀谷氏のもとで、倉橋の町自体も発展したものと思われる。
また同氏の水運・経済との関わりでは、大永七年(1527)三月の厳島神社の祭礼に、多賀谷氏の一族を含む倉橋の人間が 「倉橋舟」16艘で参加し、翌日に廿日市で神領衆の襲撃を受けている(『棚守房顕覚書』大永七年)。
厳島、廿日市は安芸西部および瀬戸内海流通の要港であり、特に祭礼ともなれば、多くの人々が集まって様々な取引が行われていた。倉橋多賀谷氏や倉橋の船乗りもまた、同地で何らかの経済活動を行っていたのかもしれない。