遣新羅使の歌
創建年代は不明だが、天平八年(736)、倉橋に停泊した遣新羅使一行の歌の一つに「わが命を長門の島の小松原 幾代を経てか神さびわたる」とある(『万葉集』)。当時、「小松原」(桂浜の松林とみられる)の付近にm何らかの社が祀られていたことがうかがえる。
倉橋多賀谷氏による再興
桂浜神社に残る棟札には、文明十二年(1480)六月二日の紀年がある。また同棟札の銘文によれば「当領主平朝臣弘重/貞光」の「寿命長遠」と「万民百姓無為」を祈願して、「平朝臣民部丞実時」が檀那となって再興したという。
多賀谷氏が平姓であることから、上記の弘重は倉橋多賀谷氏の当主、実時は同氏の有力者であったと推定される。桂浜神社の再興が、倉橋多賀谷氏の実力で行われたことが分かる。
また桂浜神社には、周防大内氏から下賜された大般若経も伝来している。大内氏と多賀谷氏の結びつきとともに、多賀谷氏が桂浜神社をいかに重視していたかがうかがえる。
桂浜神社の社司
戦国期、桂浜神社の社司をつとめた原氏は、倉橋多賀谷氏の重臣でもあった。文明十二年(1480)六月二日の棟札には、「神主原長門守藤原盛庸」の名が記されている。
近世に編纂された『芸州倉橋浦風土記』には、当時の古老の話として倉橋多賀谷氏滅亡時の様子を記されている。これによれば弘治元年(1555)、毛利元就の軍勢が倉橋丸子山城に攻め込んできた際、多賀谷方は八幡宮社司の原宮内、新四郎兄弟を大将として峠山や宮の浜(桂浜)で防戦したという。