安芸国中央部の西条盆地に位置する市場町。奈良期には安芸国分寺が建立されるなど、古代以来、安芸国の中央部と東部沿岸地域を結ぶ山陽道の要地であったとみられる。中世には宿場が置かれ、天正年間以降は「四日市」の名でも呼ばれた。
安芸国分寺
天平十三年(741)に聖武天皇の勅令で建立された国分寺のうち、安芸国分寺はこの西条に建立されている。
発掘調査によれば、創建当初の安芸国分寺の寺域は、築地塀などの痕跡から南北(奥行き)230m以上、東西(幅)約270m。主要伽藍はこの中央に南面した南門・中門・金堂・講堂と軒廊・僧房などの堂舎が南北一直線に並び、回廊は単廊のものが中門と金堂とを結ぶ方形にめぐっていた。また回廊の外側、金堂の南西方向には七重塔が建立されていたと推定されている。
遺構からは、天平勝宝二年(750)四月二十九日に帳(郡司の一人)の佐伯部足嶋という人物が「(米)四斗 目大夫御料者 送人 秦人乙麿付」と記した木簡が出土。これは法会に参列する国司のために送られた米の送り状と推定されている。このほかにも「佐伯郡米五斗」(佐伯郡から送られた米の荷札)や、「山方郡六□佐良」(山県郡から送られた皿の荷札)、「高宮郡竹原□□□□」「沙田郡□□□□」「七日用米三斗八升五合 廿日安藝郡□□」などの木簡がみつかっており、安芸国の各地から様々な品物が安芸国分寺に送られていたことが分かる。
山陽道の宿場町
室町期、安芸国に進出した大内氏は、東西条*1を所領として獲得。西条四日市の南に位置する鏡山城に東西条代官をおいて安芸国を支配した。
この頃、西条四日市も山陽道の重要な宿場町となっていたとみられる。明応四年(1495)十二月、三戸三郎五郎は天野興次から西条の「ふる市(古市)」と「いま宿(今宿)」の知行を与えられている(「閥閲録 巻109」)。遅くともこの時期には、宿場や市町が形成されていたことがうかがえる。
『中書家久公卿上京日記』によれば、天正三年(1575)三月、伊勢参詣の途上にあった島津家久は二十六日に八木の渡しで太田川を渡河。二十七日に「さいちやう(西条)の四日市」を通過し田万里を経て三原方面へ向かっている。
天正十五年(1587)三月には、九州に下向する羽柴秀吉も三原から海田までの途上で「安芸四日市」に逗留している。
市目代による支配
天正末年に作成された毛利氏「八箇国御時代分限帳」には「西条四日市目代」についての記載があり、この時期、毛利氏が市目代をおいて西条四日市を直轄支配していたことが分かる。市目代の設定には領国経済の掌握という目的があったといわれるが、同時に幹線交通網の整備という交通政策的側面も指摘されている。
年未詳十一月、毛利輝元が何らかの「祝言」における「西条宿」での準備について、赤川十朗左衛門尉と粟屋元信に命じている(「譜録」赤川忠右衞門實方)。わざわざ「まれの儀候間、一入こころを付候て馳走肝要候」とまで述べているので、かなり重要な「祝言」だったらしい。
関連人物
関連交易品
参考文献













左の区画が僧坊跡で、右の木が生えている区画が講堂跡と推定されている。

国師が執務していた事務所と推定される大型建物の跡。国師とは、奈良時代に寺院や僧侶の指導を行うために宮古から諸国に派遣された僧侶(官僧)で、国分寺の中に居所を構えて執務を行っていたとされる。

一辺約16メートルの基礎が存在することが明らかになっている。そのため、層塔の高さが七重塔が想定されている。

聖武天皇の玉歯が埋められいるという伝承のある塚の上に安置されていた。昭和七年の発掘調査により、塚からは塔の心礎をはじめとした塔の完全な礎石が発見された。


広島県立歴史民俗資料館にて撮影

広島県立歴史民俗資料館にて撮影

広島県立歴史民俗資料館にて撮影

建築年代は16世紀中ごろと推定されている。


慶雲三年(706)の創建と伝わる。元々は西条町字御建に鎮座する祇園社だったらしい。江戸期の地誌『芸藩通志』には「祇園社四日市次郎丸村にあり」と記される。

平安末期、源頼政が敗死した後、家人猪隼太は頼政妻の菖蒲前を守って安芸国に逃れ、頼政を弔うため観現寺を建立。猪隼太は名を勝屋右京と改め、建保四年(1216)没したと伝えられる。江戸期の地誌『芸藩通志』によれば、宝篋印塔に「勝屋右京墓」と「建保四丙子年七月八日」が刻まれていたという。

三ツ城古墳を利用した城跡。平賀広相の居城と伝わる。古墳は西条盆地中央の八幡山から北にのびる丘陵の先端を成形して造られている。

八幡山は三ツ城跡の西南に位置する。大永三年(1523)の鏡山城攻めの際に尼子方が布陣した。








2郭は「中のダバ」とも呼ばれる。鏡山城の中で最大の面積の郭であり、複数の礎石建物跡等が確認されている。

通称「御殿場」。2郭とともに鏡山城の主郭にあたり、周囲を切岸で囲まれている。また長方形の基壇状遺構があり、象徴的な建築物があっと推測されている。


鏡山城の南西麓にある遺跡。弥生時代の住居跡や中世の建物・土坑墓などが出土。中世の遺跡は鏡山城に関係する武士の居館跡と推定されている。

鏡山城跡の南麓に位置する神社。大永3年(1523)落城時の城主だった蔵田氏に関わる神社だという。
