大内氏被官。新右衛門尉。長胤の子。永正六年(1509)八月、竹原小早川氏の所領と接する黒瀬村助実女子畑などの知行について大内義興から証判を得ている。
所領の買得
永正六年(1509)八月十三日付で、大内義興が信胤に宛てた下文が安芸国安芸郡海田市の「千葉家文書」に残されている。これによると、信胤は既に西条寺家村の国松名4貫文、西条三永方田口村の佛師名10貫文、黒瀬村の岩屋名3貫70文、黒瀬村助実の女子畑行武国重分2貫600文*1の所領を買得していた。
大内氏はこれらの所領について、信胤からの申請の通り給恩地に准ずるものとして安堵する旨を伝えている。
信胤が買い求めた所領は、東西条とよばれた地域に含まれ、大内氏の安芸支配の根拠地でもあった。このため、大内氏の給恩地という形をとる必要があったと思われる。また信胤が所領買得をなし得る相当な財力をもっていたこともうかがえる。
信胤の来歴
千葉家の由緒書「系図略写并古器物目録」によると、神保氏は平忠常を祖とする千葉氏の流れをくみ、下野国真壁に住んでいたが、後に信濃国伊那谷に移り「神保氏」を称したという。永正年間(1504〜21)に長胤の子、信胤が安芸国に移ってきたとされる。
信胤以後の神保氏
「千葉家文書」には信胤の次代とみられる房胤、五郎、源右衛門尉に関する文書が残されている。神保房胤は天文六年(1537)十一月に平賀興貞の頭崎要害を攻め、大内義隆からその手負注文に証判を請けている。信胤と同じく大内氏に属していたとみられる。
一方で神保五郎は、天文二十四年(1555)十月一日の厳島合戦で勲功を挙げ小早川隆景から感状を得るなどしている。源右衛門尉も、隆景のもとで筑前国の検地に関わっている。
竹原小早川家中の神保氏
永正十年(1513)四月二十日、沼田小早川興平の次弟、福鶴丸を竹原小早川弘平の養子とする際に、沼田・竹原の両小早川氏の家臣たちが連署して養子契状を交換した。この件に関わった竹原小早川氏側の家臣として、木谷氏や柚木氏、川井氏、末長氏とともに神保掃部助景胤の名が見える。
信胤が東西条での所領安堵を受けた年の4年後の史料に、竹原小早川氏の家政に関わる重臣の一人として神保氏が存在していたことが分かる。なお、15世紀末頃に竹原小早川弘景が各家臣たちの格や評価等について記した置文には、神保氏の名はみえない。
参考文献
*1:信胤に安堵された黒瀬村助実の女子畑はかつて黒瀬氏清が知行していた。