宇賀島を根拠地とした宇賀島衆の頭領か。京都・東福寺の梅霖守龍が記した「梅林守龍周防下向日記」にみえる。
梅林守龍が遭遇した海賊
天文二十年(1551)四月一日未刻ごろ、 周防大内氏のもとから帰る途中だった梅林守龍の乗船は、「芸の田河原」(竹原)で「関之大将ウカ島賊船十五艘」に取り巻かれた。船頭と海賊の交渉は難航。結局翌日の朝方になって「過分の礼銭」を払うことでようやく開放され、守龍たちはその日のうちに鞆浦に到着した。
ここに少なくとも西は竹原方面までを海上勢力範囲とし、海賊船を率いて船舶から「礼銭」を徴収する宇賀島海賊「関之大将」の活動を垣間見ることができる。
小早川氏・因島村上氏の侵攻
この宇賀島衆に対し、沼田・竹原の両小早川氏を統一した小早川隆景は、備後外郡衆に加えて因島村上氏も動員して排除に乗り出す。天文二十三年(1554)四月、隆景は因島の村上吉充に、向島(歌島)一円の支配について「宇賀島一着之上」をもって了承する旨の祈請文を差し出し、十月から宇賀島対岸の向島烏崎に陣を構えて本格的な軍事行動を開始する。
小早川勢は十一月中頃には宇賀島の岸際への攻撃を定めており、この時点で宇賀島衆は滅亡寸前まで追い込まれている。この後は不明だが、近世の『芸藩通志』では、岡(宇賀島)城について「村上治部少輔・同又三郎吉満」の居所であったとしている。宇賀島衆は滅び、かわって因島村上氏が宇賀島に進出してきたものと思われる。
参考文献
- 松井輝昭 「中世の支配権力と民衆」 (『向島町史 通史編』 2000)