三国時代の烏桓(烏丸)の有力者。三郡烏桓の一つである右北平烏桓の単于。魏の幽州刺史である毌丘倹が遼東の公孫淵を攻めた際に、魏に降って朝貢した。
後漢までの烏桓族
烏桓は鮮卑とともに中国の北方から東北方にあった遊牧勢力。『後漢書』によれば、匈奴の冒頓単于に滅ぼされた「東胡」のうち、「烏桓山」に拠った勢力が烏桓と号したのだという。
前漢の頃、烏桓は匈奴へ臣属して皮布税の貢納を強いられていた(『漢書』巻94下匈奴伝下)。しかし、前漢に降ってきたその一部は上谷(河北省懐来県附近)、漁陽(北京市密雲県附近)、右北平(内モンゴル自治区寧城県附近)、遼西(遼寧省義県附近)、および遼東(同・遼陽市)など幽州管下の五郡に移されて、匈奴に対する障壁の役割を負わされた。
後漢の時代、遼西烏桓の郝旦以下の大人と呼ばれた部族長たちが朝貢。これを機に烏桓の主力は先の五郡に加えて、広陽(北京市西城区附近)、代郡(山西省陽高郡)、雁門(同・朔州市附近)、太原(同・太原市)、および朔方(内モンゴル自治区磴口県附近)の諸郡、すなわち長城以南の各地に移り住むようになった。
1世紀半ばには、こうした烏桓の招致と監視を目的として護烏桓校尉が設置された。護烏桓校尉は互市(交易の促進と管理)や質子(人質の要求と管理)、さらには戸口の管理などを任務としたほか、非常時には内属した烏桓の騎兵を率いて出撃することもあったという。
三郡烏桓への単于号授与
後漢の初平年間(190〜193)、遼西烏桓を率いた大人の兵力居が死没。子の楼班はまだ幼かったために従子の蹋頓がこれを継ぎ、三郡烏桓(遼西・遼東属国・右北平)を総摂したという(『三国志』烏丸伝)。
193年、烏桓に融和的であった幽州牧の劉虞が、公孫瓚と戦い敗死する。蹋頓は公孫瓚と敵対したため、同じく公孫瓚と対立していた冀州牧の袁紹に使者を派遣。袁紹はそれに対して詔勅を偽作して蹋頓、遼東属国烏桓の蘇僕延、および右北平烏桓の烏延らに単于の印綬を授与した*1。
なお三郡烏桓のそれぞの規模は、『三国志』烏丸伝によると、兵力居時代の遼西烏桓が五千落余、蘇僕延率いる遼東属国烏桓が千落余、そして烏延の右北平烏桓が八百落余だった。一落は平均二十数口とされる。
右北平烏桓の東走
幽州では劉虞の部下であった鮮于輔が、燕国出身の閻柔なる人物を誘って烏桓司馬*2とし、彼に烏桓と鮮卑を糾合させ、公孫瓚が任命していた漁陽太守を殺害。195年、鮮于輔は鮮卑や蘇僕延(遼東属国烏桓)、劉和(劉虞の遺子)、袁紹からの援軍などを率い、鮑丘の戦いで公孫瓚を破った。
そして199年、易京城に籠城していた公孫瓚は、袁紹によって滅ぼされた。公孫瓚死後、幽州全11郡のうち、6郡は鮮于輔が掌握。東端の遼東郡は同郡出身の公孫度が太守となり、袁紹も中子の袁煕を幽州に刺史として送りこもうとしていた。
しかし201年に袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗し、翌202年に失意の内に没してしまう。袁紹の跡は末子の袁尚が継いだが、長兄の袁譚との間で内紛が生じたところを曹操に攻められ、幽州にあった袁煕とともに遼西烏桓の蹋頓のもとに身を寄せることになった。
207年、蹋頓ら三郡烏桓は曹操の征討を受ける。遼西郡の柳城(遼寧省朝陽市)の手前で、袁煕・袁尚の兄弟以下、蹋頓、遼西単于楼班*3、および右北平単于能臣抵之ら率いる数万騎は曹操軍と戦うが、大敗。烏桓は蹋頓と王侯(名王)らが斬殺され、漢族と非漢族合わせて20万以上が降伏したという。
一方で、袁煕・袁尚の兄弟や遼東属国単于の速僕丸をはじめ、遼西烏桓や右北平烏桓の部族長らは東方に逃れ、遼東太守の公孫康(公孫度の子)のもとに奔った。以後、遼西烏桓や右北平烏桓は遼東で勢力を保つことになる*4。
魏への朝貢
右北平烏桓らが遼東に逃れて30年後の237年、魏の明帝曹叡(曹操の孫)は公孫氏政権に対し、強硬政策に転じる。すなわち幽州刺史・渡遼将軍・使持節・護烏丸校尉の毌丘倹をして公孫淵(公孫康の子)の本拠である襄平へと侵攻せしめた。
『三国志』烏丸伝の裴松之の注に引かれた『魏略』によれば、このとき、右北平烏桓単于の寇婁敦と遼西烏桓都督・率衆王の護留葉が五千人余を率いて降ってきたという。さらに寇婁敦は弟の阿羅槃に朝貢させ、これにより烏桓の族長(渠師)三十余人に王号が授与されたことが記されている。
なお公孫淵は毌丘倹の侵攻は防いだものの、翌238年、今度は魏の大尉司馬懿による総攻撃を受けて大敗し、滅ぼされた。
高句麗への侵攻
244年、幽州刺史の毌丘倹は1万人の軍勢を率いて遼東のさらに東にあった高句麗に侵攻。高句麗の王都を陥落させた(『三国志』巻28毌丘倹伝)。
魏は翌年の245年にも高句麗への侵攻を行い、玄菟太守の王頎の軍勢は高句麗の東の沃沮に侵入して北上し、ついには肅愼(挹婁)の勢力圏の南端にまで達したとされる(『三国志』巻28毌丘倹伝)。
同年、高句麗の南、朝鮮半島の東部にあった濊に対しても、魏の楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵が軍勢を率いて侵攻。渠師の一人とみられる不耐侯が降伏している(『三国志』東夷伝濊条)*5。
『三国志』巻28毌丘倹伝によれば、玄菟太守王頎は「肅愼氏南界」と「丸都之山」および「不耐之城」の三か所に功績を記した刻石を遺したという。このうち「丸都之山」に建立された石碑が20世紀初頭に現地附近で見つかっており、「毌丘倹紀功碑」と命名されている*6。
残存部分は縦38.9×横29.9×厚さ8.4センチメートルで、以下のように刻まれている。
正始三年高句驪反(下缺)
督七牙門討句驪五(下缺)
複遺寇六年五月旋(下缺)
討寇将軍魏烏丸單于□(下缺)
威寇将軍都亭侯□(下缺)
行稗将軍領玄□(下缺)
行稗将軍□(下缺)
碑には高句麗に侵攻した「七牙門」すなわち七名の軍司令官たちの姓名が刻まれていたと推定されている。このうち第四行にみえる「討寇将軍魏烏丸單于」は、右北平烏桓単于の寇婁敦だった可能性があるという。
この場合、魏の高句麗侵攻には、寇婁敦および右北平烏桓の騎兵が動員されていたことになる。
参考文献

朝鮮史編修会 編 『朝鮮史 第1編 第3巻』 朝鮮総督府 1935
国立国会図書館デジタルコレクション
*1:『三国志』烏丸伝の裴松之の注に引かれた『英雄記』では、烏桓の三人の王すなわち遼西率衆王蹋頓、遼東属国率衆王(蘇僕延)、および右北平率衆王汗盧に単于号が授与されている。また「烏桓単于は部衆を都(す)べ護り、左単于と右単于は其の節度を受けよ」ともある。遼西烏桓の蹋頓が烏桓単于、遼東属国烏桓の蘇僕延が左単于、そして右北平烏桓の烏延が右単于という配置だったと考えられている。
*2:護烏桓校尉の属吏として長史一人と司馬一人が置かれることになっていた。
*3:兵力居の子。長じて遼西烏桓の単于に推戴され、蹋頓は王となったという。
*4:袁煕・袁尚の兄弟や遼東属国単于速僕丸は公孫康によって斬られ、その首を曹操に送られた。
*5:『三国志』東夷伝濊条によれば、濊は後漢末期に高句麗に属したとあるので、劉茂らの濊侵攻は毌丘倹の高句麗征討作戦の一環だったとみられる。