17世紀初期、明朝に導入された高性能のヨーロッパ式大砲。強力な破壊力と長い射程距離、高い命中精度を誇る点で従来の火器よりも飛躍的に優れた性能を有していた。前装砲(弾薬を前部から装填する構造)であるため、銃筒壁をいっそう厚くすることが可能であり、重い砲弾を安全により遠くに発射することができた。守城・攻城において、絶大な威力を発揮した。
ポルトガルからの購入
明朝における紅夷砲の導入は、キリスト教徒であり、マカオのポルトガル人たちとも深い関係を持つ徐光啓らによって進められた。
徐光啓はマカオで製造される高性能のヨーロッパ式大砲を、北京やその近郊、遼東諸地域の軍事拠点に配備すべきと明朝に陳情。同時に、彼に師事する李之藻らを通じてマカオのポルトガル当局と独自に買い付け交渉を進め、泰昌元年(1620)、自ら費用を工面して4門の紅夷砲を購入した。
明軍への導入
当時、明朝に対する女真族の軍事的脅威が切迫していた。万暦四十七年(1619)のサルフの戦いでの大敗以後、女真族の攻勢により天啓元年(1621)には瀋陽と遼陽が陥落するなど明朝は後退を重ねていた。
このような情勢を背景に、明朝は徐光啓の建議を採用。合計30門の紅夷砲をマカオから購入し、北京および山海関、寧遠などの軍事拠点に配備した。
また天啓三年(1623)、紅夷砲の操作に熟達するポルトガル人技師約100名を火器操作の指導者として召募して北京に招聘し、京営(京師在駐の禁軍組織)での砲手育成の訓練に充当している。
天啓六年(1626)正月、ヌルハチ率いる女真軍が寧遠城に来襲。袁崇煥率いる明軍は、配備された紅夷砲の威力もあってこれを撃退した。ヌルハチはこの戦いの数日後に、死亡した。紅夷砲による傷が原因ともいわれる。
量産化
崇禎三年(1630)には徐光啓の監督下で400門あまりの紅夷砲が製造されており、明朝政府主導での量産化が行われるようになっている。これに先立って両広総督・王尊徳や福建巡撫・熊文燦ら広東や福建の有力官僚も紅夷砲などヨーロッパ火器を模造。中でも王尊徳はこれら新式火器の製造技術を『大銃事宜』という書物に纏めている。
徐光啓はこれら王尊徳らの活動にふれた崇禎三年(1630)九月の上疏の中で「近年海寇猖獗」と述べている。王尊徳らが紅夷砲など新式火器の導入を進めた背景には、「海寇」の跳梁を抑える目的があったとみられる。
女真族への伝播
一方で女真族勢力(後金)も紅夷砲に対抗するために、投降武将ら明朝の人材を吸収し、新式火器技術を積極的に導入した。その結果、後金軍の火器の製造・管理・使用の最高責任者として重用された佟養性のもとで天聡五年(1631)正月、初めて紅衣砲(紅夷砲)の製造に成功している。
参考文献
- 久芳崇 「明末における新式火器の導入と京営」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)