戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

嚕蜜銃 るーみーじゅう

 オスマン帝国(嚕蜜国)を起源とする鉄砲。16世紀、オスマン帝国から中国の明朝にもたらされた。朝鮮半島での日本軍との戦争を契機として明朝に採用され、同国の辺境防衛などに投入されて威力を発揮した。

 嚕蜜銃は鉄の鍛造で製造され、銃身は重さ6〜8斤、長さ6〜7尺。西洋や日本の鉄砲に比べて一回り大型で、そのため射撃の際には銃架(銃身を支える架台)を必要とした。大型であるため、射程距離が長く、破壊力も大きかった。

オスマン朝から中国へ

 嚕蜜銃を中国にもたらしたのは、朶思麻(だしま)という人物とされる。オスマン帝国の火器管理官であったこの人物は、16世紀中頃に同国の使節の一員として明朝に到来し、そのまま留まっていた。万暦二十五年(1597)頃、朶思麻のもとを訪れた趙子楨は、彼から直接嚕蜜銃の製造方法を学び、その模造に成功した。

明軍への導入と普及

 時あたかも、日本軍が朝鮮半島に侵攻。これに対抗する明・朝鮮両軍は日本軍の装備する鉄砲に苦戦を強いられていた。この為、明朝では日本式鉄砲に対抗し得る新式火器の導入が検討されていた。

 このような情勢を背景に、趙子楨は同年、倭(日本)の鳥銃(鉄砲)を破りうるものとして、「番銃(諸外国の鉄砲)」の採用を政府に建議。翌年五月に量産の見本として嚕蜜銃一挺、西洋番鳥銃(西洋銃、同じく趙子楨が模造に成功していたとみられる)二挺を進呈している(『神器譜』巻一「聖旨八道」)。

 趙子楨が導入を建議した兵器の多くは、明朝に採用されることはなかったが、その中にあって嚕蜜銃は高い評価を受けていた。『神器譜』巻一に所収される兵部署掌部事太子保行部尚書蕭大亨の第奏には、「(嚕蜜などの銃は)寸分違わずに命中し、重甲を突き通すことができる」ことが記されている。同じく『神器譜』同巻「恭進神器疏」(万暦三十年)にも、「虜を退けるのに嚕蜜などの銃にすべて頼っている」と賞賛されている。

  万暦三十七年(1609)成立の『三才図会』や天啓元年(1621)成立の『武備志』などには、鉄砲のモデルとして鳥嘴銃とともに「嚕密鳥銃」(嚕蜜銃)を取り上げている。17世紀初期には嚕蜜銃が大型鉄砲の一型式として明朝の中で広く認知されるようになっている状況がうかがえる。

 また天啓元年二月二十七日の徐光啓の上疏によれば、火器貯蔵庫に貯蔵されていた鳥銃(鉄砲)二千挺を「嚕密式」に改換して数月練習したところ、炸裂・破損したものは数挺に過ぎず、その他は全て試験して使用に堪えるものであったという。「嚕密式」とは、嚕蜜銃を指すとみられる。

遼東への配備

 17世紀前半、大型を含む各種鉄砲は、明朝の対女真防衛に活用され、遼東の要衝へと配備された。『満州実録』巻七には、天命六年(1621)、後金(女真)軍の攻撃に対し遼陽を守備する明兵の図が掲載されているが、そこには数挺の鉄砲の図も描写されている。いずれも銃架のようなものが見えることから大型鉄砲とみられる。こうした守城用の鉄砲は、嚕蜜銃が利用された可能性がある。

 さらに崇楨四年(1631)の大凌河攻城戦において、女真勢力は明朝側の火器を大量に鹵獲したが、その中には嚕蜜銃と思われる火器も大量に含まれていたという。

参考文献

  • 久芳崇 「明末における新式火器の導入と京営」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)