戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

多賀谷 実時 たがや さねとき

 倉橋多賀谷氏の一族。民部丞。文明十二年(1480)六月二日に再興された桂浜神社(倉橋本浦)のおよび尾立八剱神社の棟札に、その名がみえる。

桂浜神社社殿の再興

 桂浜神社の棟札には、「当領主平朝臣弘重貞光」の「寿命長遠」のため、「平朝臣民部丞實時」が「檀那」となったことが記されている。また「万民百姓無為」、つまり領内百姓の平安無事も祈願されていた。

  多賀谷氏は「其先祖武蔵平氏野与党ニ出ツ」とされ、桓武平氏を称していた。このことから、桂浜神社の再興事業は、多賀谷実時が檀那となり、当主多賀谷弘重・貞光父子のもとで行われたことが分かる。

 また、同内容の棟札が現在の倉橋町尾立の八剱神社にも残されている 。文明十二年(1480)は、当主・多賀谷弘重が大内氏から恩賞を得て長期の出征から帰還した時期とみられ、この記念事業として領内の寺社造営が行われたと考えられる。

倉橋多賀谷氏の有力者

 実時自身については、棟札以外に明らかでない。倉橋本浦の桂浜神社や春日神社の後年の棟札には、「実代」「実秀」「実吉」といった「実」が入った多賀谷一族の名がみえる。倉橋多賀谷氏に、「実」を通字とした分家があったことがうかがえる。

 実時は、神社再興の檀那となっていることから、大きな経済力を有して多賀谷氏の財政を支える一族の重鎮だったと思われる。あるいは倉橋において、水運などの経済活動に関わっていたのかもしれない。

参考文献

  • 「中世の倉橋島」(『倉橋町史 通史編』 2001)
  • 倉橋町史 資料編2』 1991
  • 「古代・中世の蒲刈」(『蒲刈町史・通史編』 2000)
  • 山内譲 『中世の港と海賊』 法政大学出版 2011

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倉橋町尾立に鎮座する八剱神社の鳥居。